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[良玄寺(大多喜_上総)]

向かって右側が本多忠勝侯側室、真ん中が本多忠勝侯、左が第2代忠朝侯の墓碑。
徳川四天王の一人本多忠勝は天正18(1580)年に年安房館山城主里見家に対する押さえとして大多喜に封じられた。
里見家と言えば、上野里見郷の新田義俊を祖とし室町時代に義実が館山を本拠として以来の上総国、安房国の名門大名。
その押さえという地位は非常に重要なもので本多忠勝は10万石だった。関ヶ原の戦いの後に本多忠勝は伊勢桑名に同じく10万石で移封、忠勝の次男の忠朝が半分の5万石で入り、その忠朝が大阪夏の陣(1615)で戦没すると、甥の政朝が城主の地位を受け継いだ(政朝は後に播州龍野に転封)。
その本多忠勝が大多喜城主になった折に菩提所として、下総国小金(松戸)の東漸寺の了学を開山として招いて建立したのが墓碑のある良玄寺。良玄寺の名は元和元(1615)年の大阪夏の陣で戦死した先代の大多喜城主本多忠朝の戒名に因む。
了学は飯沼弘経寺(ぐぎょうじ)を再興した後に、忠勝を弔うために桑名に西岸寺を開き、寛永9(1632)年には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の要請で芝増上寺第17世となっている。
良玄寺には本多忠勝侯墓碑のほかに千葉県指定文化財の紙本着色本多忠勝画像があるというが目にすることは出来なかった。

2005.2.19(土)訪問