羽茂城
佐渡の羽茂(はもち)にある佐渡最大の中世山城。ここは羽茂本間氏の居城であり、羽茂本間氏は本間本家と佐渡を二分した。そもそも、本間氏は相模国愛甲郡依知郷本間を本拠地とする武蔵七党の横山党海老名氏の出。鎌倉時代に佐渡国守護職を得た大仏流北条氏の守護代として佐渡に入った。執権北条貞時の連署を務めた大仏宣時(1238-1323)が佐渡守護となった事に伴って北条氏の郎党であった本間能久が佐渡守護代となったのが佐渡本間氏の始まり。
嫡流は雑太本間氏であったが早くから石田、波多、羽茂、久知、木野浦、大浦に庶流が独立するようになった。その内で本家に対抗するまでに大きくなったのが羽茂本間氏。
その後、室町時代に掛けて惣領家が衰微すると、羽茂本間氏は同じく庶流の河原田本間氏との間で抗争を繰り広げる事となる。羽茂本間氏は越後守護代の長尾氏と好みを通じた。越後守護上杉房能を倒した長尾為景が関東管領上杉顕定に攻められて佐渡に落ち延びた際に頼ったのも羽茂本間氏である。
長尾景虎が上杉謙信と名を改めて後、1573(元亀4)年に越中一揆に呼応して越後一揆が勃発。上杉氏代官である蓼沼右京が一揆勢によって殺害される。これに対して上杉軍が反撃に出て一揆を鎮圧。この時に上杉軍として一揆勢を鎮圧した側に、羽茂本間高信、雑太本間山代守、太田本間秀氏、久知本間与十郎、潟上本間秀光などの本間一族がいた。
上杉謙信の死後、御館の乱で上杉景勝が家督を掌握すると親上杉であった羽茂本間氏は景勝に与した。羽茂本間氏以外は去就を明確にせず、揚北衆の新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻すと反上杉の烽火を上げた。新発田重家は御館の乱における景勝の劣勢を挽回した功労者であったが論功行賞で旗本衆を重視し揚北衆を軽んじた事に憤りを感じ叛旗を翻したのである。その行動は織田信長との連絡をとった上であった。ところが、本能寺の変が起こる。
時代は大きく動き、その間も上杉景勝と新発田重家とは激しい戦いを繰り広げる。その中で、豊臣秀吉が柴田勝家を滅ぼし、越後平定を伺うようになる。豊臣秀吉軍による越後平定を恐れた上杉景勝はいち早く秀吉に忠誠を誓う。新発田重家は遅れをとったのである。こうして、豊臣秀吉の公認の下に上杉景勝は新発田重家を攻め滅ぼした。
爾後、羽茂本間高茂は、新発田重家を支援していた会津芦名義広と結んで上杉氏からの独立を目指すようになる。1598(天正17)年、上杉景勝が佐渡平定に乗り出し、沢根本間永州、潟上本間(葉梨)秀高を先鋒として羽茂城に押し寄せた。羽茂本間高茂は落城に際して出羽へ渡ろうとしたが上杉軍捕えられ殺害。佐渡は上杉氏の直轄領となり本間一族による支配は羽茂本間氏の滅亡とともに幕を下ろした。