三田城

谷保天満宮の前を立川方面に西に進み、郵便局を越えたところを南に向かう。少し真っ直ぐ行くと第3中学校の横に出る。その第3中学校の西側にコンモリとした丘が見える。この丘が三田氏館址として知られる都旧跡。郵便局から更に西に進んだところを南に行き第1小学校を抜けると、館址の頂上に至る。

この史跡は、館があったであろう辺りには民家があり私有地となっている。うっかりすると、民家の門を通り過ぎてしまうので注意が必要。

城山は青柳段丘の崖縁に面したところにあり、高さはおよそ8メートル。中世の方形的居館様式の変形であり複郭式城館を現代に留めている。

この城館の主については地元でも説が分かれているのだという。「江戸名所図会」によると「空堀・城門の跡と覚しき所も」と記し、その形状が現在、目にするものと変わりがないことがわかる。しかし、その主については、三郎殿としている。三郎殿というのは、谷保天満宮に所縁のある津戸三郎為守(1154-1243)のこと。

この点に付いては、「新編武蔵風土記稿」も「伝ヘイフ津戸三郎住居ノ跡ナリ」としている。 

津戸三郎為守は、菅原道真の子の三郎道武が父に連座して武蔵国分倍庄栗原郷に配流された時に、この地で津戸常陸掾平貞盛の娘を娶り産んだ子の子孫。

しかし、近代の調査結果をもとにした大正13(1923)年の「谷保郷土史」によると三田県主貞盛の居城という。