雉岡城

鎌倉街道上道を辿って八高線で埼玉県は児玉へ。駅から真っ直ぐの道を歩いて、途中、お昼の菓子パンを調達して雉岡城址へ。

雉岡城は別名を八幡山城といい、1460(寛政)年頃に関東管領山内上杉家の家臣・夏目舎人亮実基が山内上杉氏の居城として築いた。但し、それ以前に、本庄の大久保山遺跡に本拠を構えていた武蔵七党の児玉党の惣領家庄氏の城館があったとも言われている。ここ児玉の地は庄、児玉、蛭川、塩谷、阿佐美、河内、真下といった児玉党の各家が館を構えていた。

享徳の乱(1455-1483)で鎌倉・古河公方足利成氏と対立した関東管領上杉顕定(1454-1510)が山内上杉氏の家宰の地位を長尾忠景に与えると、甥で本来は家督を承継するはずだった長尾景春が叛旗を翻し古河公方と手を結んだ。その長尾景春が蜂起したのも雉岡城だったという。ちなみに、上杉顕定は実の弟の越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺されたことの報復として越後に侵攻するが逆に敗れて命を落としている。この為景の子が長尾景虎、後の上杉謙信になる。

しかし、関東管領家の居城としては小さいという理由で、山内上杉氏が上州平井城へと居城を移すと、家臣の夏目豊後守定基(赤松円心末裔;有田豊後守)が城主として据えられた。山内上杉氏の関東管領上杉憲政が北条氏邦に追われて関東から越後のの長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃れると、鉢形城の支城として横地左近忠春が城主となっている。

豊臣秀吉による小田原征伐の際には前田利家が雉岡城を包囲し落城させている。続いて徳川家康が関東に入ると松平玄蕃頭晴宗が1万石の家格で城主を勤め、子の松平家清が1601(慶長6)年に三河吉田に移るまで城主として治めた。南郭が公園として整備され雰囲気が良く残っている。


参考:埼玉県の城館