喜岡城址

生駒氏が高松城を築城するまで高松城と呼ばれていた城址。

1335(建武2)年に讃岐守護となった船木頼重が山田郡高松荘喜岡に築城。土岐氏の流れを汲む船木頼重は名も高松と改め居城とした。

高松頼重は、1335年11月26日に後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏家臣の細川定禅と屋島山麓で干戈を交える。しかし、讃岐の詫間・香西・三木・寒川氏が細川に与したため敗れ一族14人と郎党30余人討死。

その後、高松頼邑(-1585)が喜岡城を復興。高松頼邑(嘉重)は香西佳清に従い、香西佳清が長宗我部元親に降ると長宗我部元親の軍勢に加わった。豊臣秀吉による四国征伐では宇喜多秀家・仙石秀久ら2万3,000の兵に攻められ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵の合わせて200人と共に玉砕。

なお、高松頼邑(嘉重)の子である高松憲重は肥後に落ち延び小西行長に1万石で仕えている。その子の久重は大阪の陣で豊臣家重臣・木村重成(1593-1615)に属して戦っている。徳川方の小笠原秀政との激戦における見事な撤兵を称賛され桑名藩主松平定綱に抱えられた。


2013年4月27日訪問


四国の城館