松山城址

松山城へは2度目の訪問。

勝山山頂に本丸を構える連郭式平山城は津山城、姫路城と並んで三大平山城と称される。

賤ヶ岳七本槍の一人である加藤嘉明(1563-1631)が伊予松山20万石に加増移封され築城したのが始まり。加藤嘉明の父の加藤教明は松平家康の家臣であったが1563(永禄6)年の三河一向一揆で一揆方に与して松平家を離れた。加藤嘉明は流浪の後に尾張で加藤光泰の父である加藤景泰(美濃衆)の推挙を得て羽柴秀吉に仕えた。

文禄の役(1592-)における功績によって伊予正木に封じられた。1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると朝鮮半島より帰国。石田三成と対立し徳川家康に与する。もともと徳川家の家臣であったのであるから因果を感じる。

加藤嘉明は関ヶ原の戦功によって20万石に加増。伊予正木から勝山の地に移り、勝山を松山と改め、築城を開始。しかし、1627(寛永4)年に会津藩へと転封。代わって、会津から蒲生氏郷の孫の蒲生忠知が入封。これは兄の忠郷が嗣子無くして早世したことによる減封であった。しかし、蒲生忠知も1634(寛永11)年に参勤交代途上の京都藩邸にて急死。嗣子が無かったために蒲生家は断絶した。

蒲生家無き後の松山城は大洲藩主・加藤泰興(1611-1678)が預かった。加藤泰興は加藤光泰の次男である貞泰の子。加藤泰興は高松藩主・生駒高俊改易の際にも高松城在番を、丸亀藩主・山崎治頼改易の際にも丸亀城在番を勤めている。

1635(寛永12)年に桑名藩主の松平定行(1587-1668)が従甥である第3代将軍・徳川家光の命によって4万石を加増されて松山に入る。以降、久松松平家が明治維新まで城主を勤めた。

なお、松山名物のタルトは1644(正保元)年に長崎探題に就いた松平定行が松山に伝えたものという。


2010年3月5日訪問


四国の城館