撫養城址
徳島県は鳴門市にある小笠原ゆかりの城。岡崎城ともいい、三好之長(1458-1520)の執事であった小笠原撫養掃部助が城主を務めた。
後、阿波守護の細川持隆(1497-1553)は三好長慶からの自立を図ろうとし長慶の弟・三好義賢によって殺害された。三好義賢の子の長治は持隆の子である真之を守護に据えていた。しかし、長宗我部元親の土佐統一を見た細川真之は1576(天正4)年に勝瑞城を抜け出し三好長治の傀儡から脱し烽火を挙げた。三好長治は細川真之を討つべく出陣するが叛乱の火の手は激しく、遂には板野郡長原の月見丘にて自刃に追い込まれる。
勝瑞城は三好長治の弟である十河存保(1554-1587)が織田信長の支援を得て守った。そして、兄の三好長治を自害させた細川真之を自刃に追い込んでいる。ところが、後ろ盾であった織田信長が1582(天正10)年に本能寺の変で明智光秀に討たれると形勢は逆転。阿波に侵攻してきた長宗我部元親の軍勢に囲まれ、1582(天正10)年に十河存保は城を開城し豊臣秀吉を頼って落ち延びた。
長宗我部元親支配下で、撫養城は長宗我部配下の真下飛騨守が城主となった。
2013年4月28日訪問
1585年の豊臣秀吉による四国征伐の後は蜂須賀家政が阿波に封じられた。そして、蜂須賀家政は阿波九城の一つとして益田内膳正忠を撫養城の城主に据えた。益田正忠は、蜂須賀正勝の正室大匠院の異母弟に当たり、家政の叔父になる。阿波では撫養、堂浦、板東、堀江、川内などに3,593石を領した。
1638(寛永15)年に一国一城令により廃城となった。
四国の城館