土気城址

千葉市緑区の土気町にある土気酒井氏の居城。土気へは蘇我駅で外房線に乗り換えて降り立つ。土気酒井氏は東金酒井氏と合わせて上総酒井氏と称される一族。

第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害。山内上杉、扇谷上杉の両上杉氏が京都の室町幕府の支援を受けて、鎌倉公方足利成氏と対峙。足利成氏は鎌倉を追われ古河に本拠地を据えた。いわゆる享徳の乱(1455〜83)の勃発である。

千葉氏の惣領家の千葉胤宣は上杉家に与し古河公方足利成氏を討伐する軍を発する。一方、千葉氏一門の馬加千葉氏の馬加康胤(1398-1456)は千葉氏次席家老の原胤房と図り惣領家の乗っ取りの兵を挙げた。もちろん、馬加千葉氏と原氏の背後には足利成氏がいた。

千葉惣領家は千葉城を追われ、胤直・胤宣父子は討ち取られた。胤直の弟の胤賢(-1455)は息子実胤・自胤を逃し自刃。千葉実胤・自胤は市河城に逃れるも攻略され、太日川対岸の葛西城まで落ち延びざるを余議無くされた。

室町幕府は千葉一族の美濃篠脇城主・東常縁(1401-1488)を派遣。東常縁は馬加に攻め入り、原康胤を小弓に、馬加康胤を千葉に後退させた。しかし、市河城は、足利成氏の派遣した簗田持助によって落城。この時に、東常縁あるいは簗田持助とともに房総の地に進出した武将の中に上総酒井氏の祖である酒井定隆がいた。

この酒井定隆が上総酒井氏の祖とされる。酒井定隆の出自に関しては、東常縁の副将で土岐一族の浜式部少輔春利だという説がある。土岐光定の母は千葉頼胤であり、千葉胤綱の娘が土岐光行の妻で光定の母であるなど、千葉氏と土岐氏は関係があった。つまり、浜春利も房総に縁が無くはなかったのである。更に、浜春利の兄の浜豊後守康慶は上総国浜(千葉市中央区)に所領を有していたという。

以上が通説ではあるが、近年、酒井定隆は、鎌倉公方足利成氏の家臣の関宿城主梁田氏の家臣であったとの説が呈示されている。すなわち、鎌倉公方足利持氏の家臣で、鎌倉に住していた波多野一族の松田小太郎政敏を定隆の父とする説である。

土気城は千葉一族による支配の後、畠山重忠の末裔である大関城主畠山重康が支配下に収めた。しかし、1526(大永6)年に酒井隆敏に攻められ、大関城は落城し、重康は東金・上谷の常福寺にて自刃。土気城はこの時から酒井氏の居城となった。

その後、本家の土気酒井を長男で庶子の定治が承継し、嫡子で三男の隆敏が東金城にあって東金酒井氏として一家を立てたという。


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