多摩の城館址
城館址名 | 築城者、備考等 | 所在地(旧地名) | 最寄り駅 |
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喜多見城 | 江戸(木田見)小次郎親重(長家)の居城。 | 世田谷区喜多見4丁目・慶元寺 | |
烏山砦 | 北条氏康の家臣・高橋氏高の居城。 | 世田谷区南烏山2丁目・烏山神社 | 京王線千歳烏山駅 |
高橋城 | 竜氏による築城。後、駿河江尻高橋村の高橋肥後守が世田谷吉良家を頼り、金子弾正の家を承継し居とする。 | 世田谷区南烏山1丁目 | 京王線蘆花公園駅 |
中野城山 | 大正5年の豊多摩郡史に平忠常の城塞の址であり、同地に太田道潅も城塞を構えたという。その後、田島達策氏邸宅となる。 | 中野区中野町1丁目 | JR中央線中野駅 |
和田城 | 鎌倉幕府の重鎮・和田義盛が居館を構えた址と伝わる。現在は哲学堂公園。 | 中野区松ヶ丘1丁目 | JR中央線中野駅 |
沼袋陣屋 | 長尾景春の乱の際に、上杉方の太田道潅が石神井の豊島泰経、練馬の豊島平衛門に対して陣を布いた地。 | 中野区沼袋1丁目 | 西武新宿線沼袋駅 |
成宗城 | 鎌倉幕府第3代将軍源実朝に仕えた中野左衛門尉の居館の址と伝わる。現在は共立女子大学生寮。 | 杉並区成田西4丁目 | 東京メトロ丸の内線阿佐ヶ谷駅 |
杉並堀之内 | 杉並区堀之内1丁目 | ||
大宮館 | 源義家の居館址と伝わる。現在は大宮八幡宮が鎮座する。 | 杉並区大宮町2丁目 | 京王井の頭線西永福駅 |
善福寺城 | 井草八幡宮辺りが太田道潅による築城の地と言う。 | 杉並区善福寺2丁目 | 西荻窪駅 |
練馬城 | 石神井城主・豊島三郎兵衛泰経の弟・豊島左近大夫景村がこの地に矢野山城を築いたという。現在は豊島園内。 | 練馬区向山3丁目 | 豊島園駅 |
石神井城 | 沼袋の戦いに敗れた豊島泰経が太田道潅と対峙した城。豊島泰経は太田道潅に敗れた後、平塚城、小机城でも敗れ行方不明となり豊島家は滅亡した。 | 練馬区石神井1丁目 | 西武池袋線石神井公園駅 |
愛宕城 | 文明9年4月、上杉方の太田道潅が長尾方の豊島泰経の石神井城を攻める際に本陣を設けたと伝わる。現在は早稲田高等学院の敷地内。 | 練馬区上石神井1丁目 | 西武新宿線上石神井駅 |
牟礼砦 | 1537(天文6)年に北条氏康の家臣・北条治部小輔綱種が、関東管領上杉家の難波田弾正の深大寺城への備えとして築城。現在は神明神社境内。 | 三鷹市牟礼2丁目 | 京王井の頭線三鷹台駅 |
天神山砦 | 武蔵七党の一つ村山党の金子弾正の築城と伝わる。 | 三鷹市新川町2丁目 | |
柴田陣屋 | 柴田勝家の遺児で徳川家に仕えた柴田勝重が領した地。現在は柴田家ゆかりの勝淵神社が鎮座する。柴田家以前、この地は、百軒屋敷あるいは島屋敷と呼ばれ、武蔵七党の一つ村山党の金子時光、金子弾正の屋敷だったという。 | 三鷹市新川町3丁目 | |
深大寺城 | 扇谷上杉朝定が古城を修復し、家臣・難波田広宗を守将とした。難波田家は武蔵七党の村山党の一族で富士見市下南畑の難波田居館址を本拠地とした。 | 調布市深大寺町 | |
柴崎陣屋 | 富士フィルム工場の前の稲荷神社周囲に陣屋があったという伝承があるも詳細は不明。 | 調布市柴崎町2丁目 | |
佐須館 | 晃華学園近くの堀の内周辺。学園中に狛江入道館碑があるように、この地は吾妻鏡の1208(承元2)年の条にある狛江入道増西の館があった場所。 | 調布市深大寺町 | |
狛江館 | 日枝神社、円住院あるいは明静院、八幡社周辺に狛江入道増西が城を構えたという。 | 狛江市岩戸町 | |
殿山城 | カブト山古墳、伊津見神社近くに狛江一族が築城したという。 | 狛江市和泉町田中 | |
足利陣所 | 高安寺。ここは小山氏満征伐時の足利氏満、大内義弘の乱に際しての足利満兼、上野臼井城の上杉憲実に対峙した足利持氏、扇谷・山内上杉両家に対抗した足利成氏が陣所とした。 | 府中市片町2丁目 | |
人見館 | 武蔵七党の猪俣党の河勾政基の子・政経による築城。 | 府中市若松町5丁目 | |
立川城 | 武蔵七党の西党から出た立川家の居城。現在は、立川宗恒の創建した普済寺に名残を留める。 | 立川市柴崎町4丁目 | JR中央線立川駅 |
箕輪城 | 武蔵七党の西党から出た立川家の居城の立川城の支城。現在の光西寺のあたりが本郭とされる。 | 立川市羽衣町3丁目 | JR南武線西国立駅 |
保谷館 | 現在の東伏見稲荷神社の地が保谷館であったとされる。『新編武蔵風土記』に「上保谷村は新倉郡広沢庄に属し郡の南にあり。江戸を隔てること五里、この村は土地平かなれど水利宜しからざれば古来より畑なり。保谷氏主として開墾せし故にこの名あり。開墾の年代は確かに伝えざれど、北条分限帳にも地名をのせず、また、保谷氏の名もなし。村内東禅寺の開基に保谷出雲守直政の名あり。おそらくこの人ならんか」とある。東禅寺は1595(文禄3)年の創建。 | 保谷市東伏見1丁目 | 西武新宿線東伏見駅 |
殿ヶ谷戸城 | 現在の殿ヶ谷戸公園を小幡晋氏は城址とする。 | 国分寺市南町2丁目 | JR中央線国分寺駅 |
三田城 | 鎌倉幕府3代将軍源実朝に仕えた津戸三郎為守の築城と伝わる。 | 国立市谷保中平 | JR南武線谷保役 |
小沢城 | 小山田有重の三男・稲毛三郎重成の居城。稲毛重成は鎌倉幕府初代執権・北条時政の陰謀による幕府重鎮・畠山重忠討伐に加わり、北条時政の子・義時によってかえって討伐される。この時、稲毛重成の子・重政は小沢城で討伐された。戦国時代には小田原北条氏の属城となり河越の扇谷上杉朝興に攻められている。 | 稲城市矢野口 | JR南武線稲田堤駅 |
長沼城 | 鎌倉時代の長沼五郎宗政の居城。現在の常楽院の西がかつての城址。 | 稲城市長沼 | |
大丸城 | 『武蔵名勝図絵』に「多摩郡大丸城山、右同村にあり。高さ二町ほど山上に空湟の如く廻りて五十間ばかり、また、高さ一丈八尺ほどの上に平地あり。遠見の跡と見えたり。この山の古瓦の破れ多く出るという。厚さ七・八分、何人の住したるを知らず。」とある。 | 稲城市大丸入方 | JR南武線南多摩駅 |
天守台城 | 天守台城は関戸城と一体。 | 多摩市桜ヶ丘1丁目 | |
関戸城 | 多摩市関戸 | ||
高幡城 | 高幡不動の裏山に城址がある。豊臣秀吉による小田原征伐の際は、上杉景勝・前田利家軍を相手に城将・高幡十右衛門が守った。 | 日野市高幡 | 京王線高幡不動駅 |
平山城 | 武蔵七党の西党日奉氏の流れを汲む平山武者所季重の居城。西党は1215年の和田義盛による反北条の挙兵に横山党とともに参軍。立川家と平山家を除いて西党は滅亡した。 | 日野市平山6丁目 | 京王線平山城址公園駅 |
陣屋山城 | 八幡宮境内に土塁あるも詳細は不明。 | 日野市百草 | 京王線百草駅 |
日奉館 | 武蔵七党の一つ日奉党の日奉宗忠の居城。日奉宗忠創建の東光寺と七つ塚古墳の間の地が館であったと推定される。 | 日野市東光寺 | JR中央線日野駅 |
成瀬城 | 恩田川沿いの杉山神社近くが城址という。 | 町田市成瀬町会下山 | |
沢山城 | 豊臣秀吉による小田原征伐の際には、北条方として三輪三郎が守った。 | 町田市三輪町上三輪 | |
小野路城 | 平安時代の武蔵国司・小野孝泰(武蔵七党の一つ横山党の祖)が居城を構えたという。 | 町田市小野路町台 | |
小山田城 | 大泉寺の境内を中心とした地が城址。斉藤別当実盛とともに平家方として活躍した小山田別当有重が拠点とした。小山田別当有重はいち早く源頼朝に付き命脈を保った。稲毛重成は彼の三男。5代小山田高家は新田義貞に属し、生田の森の戦いで足利軍に討ち取られた。 | 町田市小山田町大泉寺 | |
結道城 | 小山田城の支城というが詳細は不明。 | 町田市図師町結道 | |
井出沢城 | 最後の得宗・北条高時の遺児・時行が中先代の乱で足利直義の軍を敗った地。 | 町田市町田旭町 | |
小山城 | 武蔵七党の一つ横山党の小山太郎有高によって築城。1213年に和田義盛による執権・北条義時にたいする挙兵に参加し敗れた。 | 町田市小山町御岳堂 | |
藍原館 | 『旧相原村誌』に「横山武蔵権守時重の弟孝遠、藍原二郎大夫を称す。藍原の子孫は八・九代続き、分流して野分、山崎、鳴瀬を姓にす。館址は城下より旧道を登ること数町、清水町の後方の山林なり。前方に相模平野を望み境川あり。後は山続きの丘陵なり。殿丸は東西二三間、南北三十間その面積六百九十坪なり」とある。 | 町田市相模町殿丸 | |
横山館 | 駅前の八幡八雲神社が武蔵七党の横山党の本拠地。 『新編武蔵風土記稿』に「この横山の名は古き唱えなり、七党系図横山党の祖は従四位下武蔵守隆泰、その子武蔵権守義隆始めて横山に住してより子孫横山氏を称し、数代この地を伝領せしが、横山右馬允時兼が代に、建暦三年五月和田義盛の乱に討死し家絶えける由なり、また、同書に横山の地を大膳大夫に賜うと見ゆ、時兼が所領没収の地なるべし」とある。 | 八王子市元横山町 | JR中央線八王子駅 |
八王子城 | 1576(天正4)年に北条氏照が築城し、滝山城より移った。武田 勝頼の侵攻に備えての築城。しかし、武田家は1582年に織田信長によって滅亡。八王子城は豊臣秀吉による小田原征伐で落城。この時の城将は横地吉信、金子家重、狩野一庵、中山家範ら。中山家範は最後まで中の丸を守って戦い抜き、前田利家が降伏勧告を行ったが、妻子ともに自刃した。 | 八王子市元八王子城山 | |
川口館 | 『武蔵名勝図絵』に「往古川口氏の屋敷跡なりという。(中略)川口氏の系伝を尋ねるに、その祖は武蔵七党の内より出たり。高魂命後胤、西党、西次郎宗貞三代之孫、川口次郎大夫この人初めて川口村に住せしより地の名を以て氏として、川口を称する始めなり。その男に川口八郎太郎景綱、その男に川口太郎大夫長季、三代に川口兵庫助幸季なり、これより後は姓名不知、幸季は応永(1394-1428)正長(1428-29)のころにて、その後、天文年中北条氏のため食禄を失う云々」とある。 | 八王子市川口町調井 | |
小田野城 | 大楽寺近くにある。小田原城落城まで小田野源左衛門の居城だったという。小田野源左衛門は、その後、由木領の松木村に移ったという。 | 八王子市西寺方町上小田野 | |
滝山城 | 木曽義仲流の信濃源氏の大石源三定重が1356(延文元)年に築城。1546(天文15)年北条氏康は次男・氏照を大石定久の養子とし滝山城を守らせた。実質的に家を奪われた大石定久は戸倉城に隠居の後、由木の永林寺に入り、野猿峠にて自刃した。滝山城は武田信玄による関東侵攻の際に武田勝頼による猛攻に耐えた。しかし、更なる守備の堅固を求めて北条氏照は居城を八王子城に移した。 | 八王子市丹木町 | |
高月城 | 1456(長禄2)年に大石定重が案下城から移って築城。1521(大永元)年に太田道潅の軍門に下った大石顕定が滝山城に移ったため廃城。 | 八王子市高月町 | |
梶原館 | 現在の八幡神社の後方が源頼朝の右腕・梶原景時の城址という。 | 八王子市元八王子2丁目 | 京王線高尾駅 |
千手山城 | 浄福寺の後方が1384(元中元)年に大石信重が秋川の二宮城から案下城に移り、次いで、千手山城に移った。 | 八王子市下恩方町 | |
尾崎山陣城 | 現在、尾崎小学校のある地は北条氏照の守る滝山城を攻略するために武田勝頼が築いた陣城の跡地。 | 八王子市尾崎町 | |
左入城 | 西山十右衛門の居城との伝承あり。 | 八王子市左入町 | |
初沢城 | 武蔵七党の一つ横山党の椚田家が1215(建保3)年の和田義盛の挙兵に加わり滅亡後、幕府重鎮の大江家が椚田郷を領し初沢城を築城。大江長井広道は扇谷上杉家臣として、1504(永正元)年に山内上杉方の越後勢に攻められ落城し討死した。 | 八王子市初沢町 | 京王線高尾駅 |
浄泉寺城 | 現在の浄泉寺は鎌倉権五郎景正の居館址と伝わる。 | 八王子市館町 | |
近藤城 | 1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐時に前田利家、上杉景勝の軍に攻められ八王子城で玉砕した近藤出羽守助実の居城。 | 八王子市館町 | |
高山城 | 鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の弟・北条四郎泰家が拠った城という。 | 八王子市館町殿入 | 京王線狭間駅 |
片倉城 | 鎌倉幕府の重鎮・大江広元の子孫・大江長井広房による築城。現在は住吉神社境内。 | 八王子市片倉町 | 京王線京王片倉駅 |
廿里城 | 1569(永禄12)年の武田信玄の関東侵攻の際、武田の小山田信茂に対して、北条の金指平右衛門、野村源兵衛らが守った城。 | 八王子市廿里 | JR中央線高尾駅 |
由木城 | 大石定重の墓のある永林寺の裏手は武蔵七党の一つ横山氏の由木家の居城の由木城址。横山党滅亡後、長井家の所領となり、長井広房が片倉城を築くと廃城となった。 | 八王子市柚木町 | |
松木館 | 松木七郎の館址という。現在の佐藤邸は松木家の子孫という。 | 八王子市松木 | |
大石館 | 『新編武蔵国風土記稿』に「大石信濃守屋敷跡 大栗川の南にあたれる山のなだれなり、信濃守は郡中滝山の城主にて、永禄のころの人なりと云々」とある。 大石家は関東管領・山内上杉家に仕え武蔵目代・守護代を勤めた名門。木曽義仲の子・義宗を祖とする。千手山城城主・大石顕重は高月城築城に際して暫時松木に住んだという。また、近くには、1571(元亀2)年6月8日没と記された大石信濃守宗虎の墓がある。 | 八王子市松木台 | |
堀之内館 | 武蔵七党の一つ西党の由木七郎が居館を設けたという。 | 八王子市堀之内芝原 | |
殿谷戸 | 六社宮の境内が居館の址という。武蔵七党の横山党の一族か。 | 八王子市長沼町 | 京王線長沼駅 |
小仏城山 | 八王子市裏高尾町 | ||
戸吹城 | サマーランドの南方。『武蔵名勝図会』に「荒墟 宮の下村より西続き、戸吹村というところの西北の限りにして、秋川へ接せし山頂にあり、堀切、築地などの形、所々に残れり。されども、秋川へ接せしところは大抵崩れ落ちて、広狭知れず。土人云いつのころ何人の住居ということを伝えざれども、古老の伝ふるに住居せし墟にあらず、築営半ばにも至らず、相応にあらざるゆえにや、その築営を止めしということを言ひ伝うと云」とある。 | 八王子市戸吹町根古屋 | |
二宮城 | 武蔵七党の一つ西党の二宮家が居館を築いたという。室町時代には、『鎌倉大草紙』には1479(文明11)年3月10日に上杉定正が河越から大石駿河守が守る二宮城を攻撃したとある。 | 秋川市二宮小川 | |
引田城 | 武蔵七党の平山家の居館の址を天正年間に甲斐の武田家遺臣・志村肥前守景元が居館とした。現在の正音寺薬師堂がその址という。 | 秋川市引田 | |
網代城 | 網代山頂上に城址あり。小田原北条家の家臣・貴志豊後守とその子・貴志兵部正成の居城。 | 五日市町増戸網代 | |
戸倉山城 | 室町時代初期に小宮上野介憲明が築城。小宮家は、その後、顕宗、網明と続き、小宮網明の代に犬懸上杉禅秀の乱に南一揆の一員として加わり滅亡した。その後、大石家が城主となった。光厳寺の裏手。 | 五日市町戸倉 | |
檜原城 | 小田原北条家の家臣・平山長寿と善九郎兄弟の居城。 | 檜原村本宿 | |
平井城 | 宝治年間(1243-49)に平井八郎清頼が築城か。旧宗剣寺墓地の円柱石塔に平井院殿忍雄宗剣大居士の名と天正18年6月23日没の銘ありという。 | 日の出町落合 | |
勝峰山城 | かっぽやまに、平将門の一夜城の言い伝えあり。 | 日の出町大久野 | |
長井館 | 北条氏照の家臣・長井六右衛門尉の居館址。 | 日の出町長井 | |
平山館 | 『武蔵名勝図絵』に「御殿跡 幸神社(さじかみ)の西北にあり、いま、民戸の地なり、古えの遺名を称してか、かく名ずけていうなり、何人の住居跡なることを伝えずといえど、往古この村に平山左衛門尉綱景という人の住せし由、平山氏は永禄(1558-70)の前後ここに居地したるものなるか」とある。 | 日の出町新井 | |
平井堀之内 | 宝光寺、道場集落のあたりは平井家の館址という。 | 日の出町上平井 | |
勝沼城 | 鎌倉時代末期に武蔵荏原郡三田の三田長綱が勝沼に移り三田家累代の居城としたという。三田家の後は小田原北条家の師岡山城守昌景が入城。 | 青梅市師岡町1丁目 | |
藤橋城 | 檜原村史によると1561(永禄4)年に平山季村が城主だったとある。 | 青梅市藤橋 | |
今井城 | 港区にある木曽義仲の乳兄弟・今井四郎兼平の居城と伝わる今井城、川崎の今井神社に痕跡を残す今井館と同様に今井家ゆかりの城址という。 | 青梅市今井城ノ腰 | |
楯沢城 | 三田家の勝沼時代の出城。三田綱秀が自刃して以降は、北条家に属した武田家遺臣・田辺清右衛門尉と平四郎が居城としたという。 | 青梅市日向和田楯沢 | |
宮平塁 | 現在の和田乃神社境内が三田家遺臣・野口刑部丞秀房の守った塁という。野口家は三田綱秀が岩槻で自刃した後は小田原北条家に仕えた。野口家は、また、主家の菩提を弔うために、天寧寺、金剛寺、海禅寺に位牌を納めている。 | 青梅市日向和田宮平 | |
長淵堀之内 | 1418(応永25)年に三田左衛門五郎平朝貞が拠ったという。 | 青梅市長淵1丁目 | |
杉平塁 | 青梅市梅郷1丁目 | ||
下村堀之内 | 旧竹林寺址が野口刑部丞の館址という。 | 青梅市梅郷2丁目 | |
辛垣城 | 三田綱秀の居城址。 | 青梅市二俣尾 | |
西城 | 三田綱秀の居館址。 | 青梅市二俣尾4丁目 | |
御岳山城 | 享禄・天文年間(1528-58)に平沢駿河守忠実・正美父子が支配。平沢は、あるいは、長井とも(高橋源一郎『武蔵国歴史地理』)。 | 青梅市御岳山 | |
浜竹柵 | 平将門の家臣・浜竹五郎の築いた柵と伝わる。 | 青梅市御岳2丁目 | |
下成木館 | 安楽寺の境内は成木大夫の居館址という。 | 青梅市成木1丁目 | |
上成木館 | 青梅市成木7丁目 | ||
大石館 | 通称を遠江坂という。坂の上には稲荷神社があり、ここは北条氏照旗下の大石左近大夫照仲、あるいは、大石遠江守四郎左衛門の居館址という。 | 羽村町東 | |
尾崎柵 | 平将門の家臣・尾崎十郎の築いた柵の址という。 | 奥多摩町丹縄 | |
城山 | 奥多摩町坂下 | ||
城 | 奥多摩町城 | ||
村山館 | 瑞穂町山際 | ||
村山城 | 武蔵七党の一つ村山党の本拠地。 | 瑞穂町 | |
真福寺陣所 | 太田道灌による秋川高月城攻略のために陣を布いた地。 | 武蔵村山市中藤 | |
村山砦 | 武蔵村山市馬場 | ||
石川陣屋 | 東大和市芋窪2丁目 | ||
勝楽寺城 | 所沢市狭山湖公園 | ||
山口城 | 所沢市打越 | ||
滝ノ城 | 所沢市本郷城 |