大矢野城址

大宰大監大蔵種資の孫である安永種永の子種能が、大矢野島の地頭職に補され大矢野十郎を称したことを始めとする大矢野一族の居城。

1503(文亀3)年、相良氏が八代に進出すると大矢野氏は他の天草諸氏とともに相良氏に加勢した。相良氏と肥後守護菊池氏の間で天草諸氏とともに独立を保ったと言える。この頃の天草の有力諸氏は菊池氏の書状に見られるように、宮地氏、長島氏、栖本氏、大矢野氏であった。

天文年間(1532-54)になると、大矢野氏は天草氏、志岐氏、栖本氏、長島氏と連合して上津浦氏と対立。上津浦氏は人吉の相良氏と結んで天草諸氏連合軍を撃退。以降、大矢野氏は相良氏の影響下に入ることになった。

戦国時代には、大矢野氏は天草氏、志岐氏、栖本氏、上津浦氏と並ぶ天草五人衆の一画を占める。

豊臣秀吉による九州征伐の後、1589(天正17)年に、豊臣秀吉配下の小西行長の宇土城の城普請の要求を、志岐鎮経(麟泉)を筆頭に天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高は拒否し叛旗を翻した。叛乱は小西行長と加藤清正によって鎮圧された。大矢野種基は降伏し許された。しかし、朝鮮出兵の順天倭城の戦いで、嫡男の種量とともに戦死。大矢野氏は次男の直重が承継。関ヶ原の戦いで小西行長が敗れると加藤清正に仕え、加藤家が改易になると細川家に仕えた。


九州の城館