中野館址
岩手県は盛岡の盛岡城の近くの松尾山と呼ばれる地にある南部氏の一族である九戸信仲の子・中野康実の館址。
九戸政実(1536-1591)の弟にあたる。
すぐ横には十六羅漢がある。中野康実は高水寺斯波氏へと婿入りしたが、後に、斯波御所を出奔。この中野館にあって斯波氏と対峙した。
つまり、高水寺斯波氏攻めの先鋒となった。
南部家が高水寺城を攻略すると、3500石で城代となり片寄城主と兼ねた。この際、斯波御所ゆかりの高水寺城の名を郡山城と改めている。
1582(天正10)年に南部晴政が病没。晴政はかねてから養子の信直と対立。1572(元亀3)年には川守田村毘沙門堂に参拝した信直を晴政が襲撃。信直の反撃によって晴政と傍らにあった九戸政実の弟で晴政の娘婿である九戸実親(1542-1591)が負傷したと伝わる。
そのような因縁があったため、晴政の没後、南部家当主の座を巡って養子・信直と実子・晴継との争いが勃発。後継者として晴継に決したものの三戸城への帰途暗殺される。
急遽会合が開かれ、九戸実親が後継者として候補となったが、南部家重臣・北信愛(1532-1613)が根城(ねじょう)南部氏18代当主・八戸政栄(まさよし)(1543-1610)を調略したことで形勢が変じ、信直が南部宗家の当主に決した。
1586(天正14)年に九戸政実が南部宗家を自称。
1590(天正18)年の豊臣秀吉による奥州仕置以降も、その姿勢を貫き、1591(天正19)年に遂に挙兵。単独で九戸政実を攻め滅ぼすことは出来ないと考えた南部信直は豊臣秀吉に救援を求めた。
この九戸政実の乱の際、その弟であった中野康実は宗家の南部信直に与し、北信愛に命じられて浅野長政の道案内役を務めた。
中野康実は、晩年は南部利直と不仲となり毒殺されたという。
中野館は別名を飛鳥川館と言い、不来方と呼ばれた盛岡を任されていた福士伊勢守の守る慶善館と東西に並んで高水寺城の斯波御所への前線基地として機能したと考えられている。
東北の城館