志波城址
東北地方では774年から811年にかけて三十八年戦争が戦われた。
774年、断続的に大和朝廷に対して蜂起を繰り返していた蝦夷に業を煮やした朝廷は按察使大伴駿河麻呂に蝦狄征討を命じる。
朝廷軍は伊治呰麻呂を味方にし蝦夷側の抑え込みに成功する。
しかし、同僚である牡鹿郡大領・道嶋大盾との軋轢を原因として、伊治城を訪れた陸奥按察使・紀広純と道嶋大盾を殺害。多賀城に逃れた陸奥介・大伴真綱に対しても追撃を行い駆逐するに及ぶ。
朝廷は藤原小黒麻呂を征東大使に任命、宝亀の乱と呼ばれた叛乱を鎮圧した。
加えて、789年に征東大使・紀古佐美、続いて、794年には征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による大規模な軍旅を催した。
そして、801年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され蝦夷の指導者である大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)を下す。
このような大規模な対蝦夷戦争の総仕上げとして、803年に築城されたのが志波城。
志波城の他にも、この三十八年戦争の間に、801年頃に横手の払田柵、802年頃に北上の胆沢城、812年頃に徳丹城が築城されている。
東北の城館