佐賀城(佐賀)
1607(慶長12)年から鍋島勝茂によって築かれた佐賀鍋島藩35万7000石の平城。別名を栄城とも亀甲城とも。佐賀は、奈良時代の国司藤原秀清の末裔の秀家を祖とする竜造寺氏が支配する地として栄えた。中でも、隆信は九州の北半分を併呑するまでの大名となったが有馬・島津連合軍との戦いで戦死。子の高房が幼少だったために鍋島直茂が後見となった。その後、鍋島直茂が実権を握った。
佐賀城は鍋島直茂の代に築城が計画され、勝茂の代に着工し6年の年月を掛けて完成。五層の天守閣、本丸、二の丸、三の丸、西の丸が築かれたが、天守閣、本丸、二の丸は惜しくも1726(享保11)年の火災で焼失。二の丸は再建されたものの、1835(天保6)年に再び焼失。再度、二の丸の他に本丸も再建された。しかし、明治時代の佐賀の乱で戦場となり、写真にある鯱の門を除いて焼失してしまった。