平塚城
浅見光彦が住む近くという設定がされている平塚神社は京浜東北線の上中里駅から少し歩いた場所にある。蝉坂という切通しを上っていく。
この切通しは古城の一部でもある。そういう雰囲気が微かに漂っている。さもありなん。
平塚神社は坂東平氏の豊島家の居城の跡。
豊島家は江戸家、葛西家とは同族で現在の23区を三家で分っていた。後三年の役(1083-87)の際に、清和源氏の嫡流である源義家兄弟が、ここ平塚城に立ち寄り豊島太郎近義の歓待を受けたという。
その際に鎧一式を賜る。これを祀ったのが平塚神社の始まりと伝わる(甲冑塚)。そう、この神社の祭神は源義家・義綱・義光三兄弟。
そのため、創建当初は平塚三所大明神と呼ばれていた。~江戸時代に平塚出身の盲目の人山川城官貞久は平塚三所大明神に祈願して江戸に出たところ検校の地位を得た。
この山川貞久、第3代将軍徳川家光が病に臥せった際に平塚三所大明神に祈願。すると将軍の病気が平癒したということで、徳川家光自ら50石の朱印地を寄進し足を運んだという。
豊島氏の居城である平塚城に関しては、「太田道潅状(『北区』記録四八)」に豊島氏が長尾景春に与同した際に「江戸近所の豊島勘解由左衛門尉・同弟平右衛門尉、(石神井・練馬城の)両所に『対の城』を構え候の間、江戸・川越の通路不自由により、先ず、勘解由左衛門尉の要害を以って落居せしむべく」企図し「江戸要害に向け、平塚と申すところに『対の城』を拵え、楯籠り候の間」とある。通常、対の城は攻め手が対陣するために築く城であり、この場合は豊島氏が太田道潅の動きに対して築いた城ということになる。
但し、この場合、平塚城・石神井城・練馬城は居館ではないことになる。
2006年4月に訪問。
東京23区の城館