鵜殿城

熊野川河口左岸に築城された鵜殿氏の居城。鵜殿氏は熊野別当湛増の後裔とも、熊野七人衆のひと常香の孫とも云い伝えられている。鵜殿の名は紀伊新宮の鵜殿という地名に由来する。

鵜殿氏は1341(興国4)年に南朝方から北朝方に転じ、相野谷から侵攻してくる南朝方からの猛攻を受けた。その直後に南北朝合一が成立。鵜殿城は落城を免れている。

鵜殿氏は鎌倉時代から鵜殿城の地だけではなく、海を隔てた三河地方にも進出していたことが知られている。鎌倉時代に三河の竹谷、蒲形荘が熊野社領であったとの記録が『吾妻鏡』に残されているが、鵜殿氏と何らかの関係があったであろうことが想像出来る。

鵜殿氏系図によれば、鵜殿長政が三河長久と記されており、長政の時代には既に本拠地を鵜殿城から三河の地に移していたことが分かる。

戦国時代に鵜殿氏は三河の上ノ郷(神ノ郷)を中心として、下ノ郷、不相、柏原を勢力圏としていた。


2010年11月


三重県の城館