赤穂城

兵庫県赤穂市にある浅野長直によって1648(慶安元)年から築城された加里屋城とも呼ばれる平城。築城に当たっては甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲の弟子の近藤正純が普請奉行を務め、兵法者山鹿素行も協力して12年の歳月が費やされた。赤穂の地には赤松満裕の一族の岡豊前守、続いて、宇喜多秀家が刈屋城を構えていた。関が原の戦いで宇喜多氏が改易されると池田家の所領となり、輝興が刈屋城を改修して赤穂城を築城した。

池田輝興が除封された後に、1645(正保2)年に常陸笠間から浅野長直が入った。赤穂城の縄張りは、甲州流軍学を反映し、輪郭式縄張りで本の丸と二の丸を同心円状に置き、北に三の丸を配置し、折れや斜(ひずみ)を塁線に多用している。

瀬戸内の対岸にある高松城には豊臣旧臣の生駒家は1640(寛永19)年に生駒騒動と呼ばれる家内騒動で揺れ、讃岐一国を取り上げられて出羽八島へと移封された。

その後、高松城には水戸家の松平頼重が入り西国諸藩監視の役目を負った。この高松城と対をなす拠点として幕府から築城を命じられたために、赤穂城は5万3000石の石高にしては大きな城となっている。

城は残念ながら、1876(明治9)年に競売にかけられ建物の殆どを失い、現在、目にすることが出来るのは復元されたものとなっている。