浜松城

2010年4月の桜満開の季節に訪問した。当日は花見をする人々で浜松城は大賑わい。駐車場も満車状態。すぐそばに市役所の駐車場があるのだが、日曜日の閉庁日とあって入り口のシャッターは下ろされていた。

さて、この浜松城は出世城とも呼ばれている。

それは、徳川家康が浜松城を離れ江戸城に入り江戸幕府を開き、将軍の座を秀忠に譲って後に駿府城に移ってから、この浜松城に入った譜代大名の城主25代のうち、なんと5人が老中となり、2人が大阪城代、2人が京都所司代、4人が寺社奉行へと立身出世を遂げていることに由来する。

もっとも、それ以前に徳川家康自身が浜松城から出世の道を歩んでいる。

徳川家康は岡崎城で生まれ、織田家、今川家での人質時代を経て、桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が討たれると今川家を脱出。1568(永禄11)年には三河から今川家の支配する遠江に井伊谷三人衆などの尽力によって侵攻。引間城を落城させ、倉橋宗三郎を普請奉行、木原吉次、小山家次を惣奉行に任じて引馬城を拡張し浜松城を築城した。引馬という地名を浜松と改めたのも徳川家康なのだ。

徳川家康は浜松城主時代に生涯で最大の敗戦を経験している。苦虫を噛み潰したような肖像画を見たことも多かろうが、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いである。上洛途上の武田信玄軍は徳川家を無視する形で徳川領内を2万7千の軍勢で通過しようとする。これをさせるまじとして、立ち向かった徳川軍は1万2千。この戦いで、徳川軍は敗北。加勢していた織田軍の平手汎秀も討死している。徳川家康は夏目吉信、鈴木久三郎を身代わりとしてようやく浜松城に帰ったという。武田軍の山県昌景は浜松城まで追撃したが、城門が開門している様を見て計略があるに違いないと考え、攻城に及ばなかったというのは有名なエピソード。

ちなみに、翌日に徳川家康は大久保忠世、天野康景に命じて犀ヶ崖にて武田軍に夜襲を掛け損害を与えたという。もっとも、武田軍は大軍勢のまま徳川家の本拠地である三河にそのまま侵攻している。

浜松城へは2度目。しかも、2009年8月の夏真っ盛りに訪れている。つまり、1年と経たない内に再度訪問したことになる。


静岡県の城館