寒河江城


2010年7月17日訪問

寒河江氏は鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の右腕として活躍した大江広元(1148-1225)の子である大江親広(-1242)によって築城が着手された城。

親元は鎌倉幕府3代将軍・源実朝に寺社奉行として仕え、鎌倉幕府2代執権・北条義時の娘・竹殿を妻とするなど、鎌倉幕府の中で重きをなした。

しかし、京都守護として在京の間に後鳥羽天皇の要請に応じて承久の乱(1221)では幕府軍に叛旗を翻した。天皇軍が敗れた後、竹殿と離縁し、出羽の所領に蟄居した。

大江親元から数代の間の寒河江城は本丸のみの館城であったという。しかし、室町時代の第8代時氏によって二の丸と三の丸が付け加えられ城としての形を整えた。

大江氏は親元の弟の大江(毛利)季光が承久の乱で幕府軍として活躍。安芸吉田荘の地頭職を得ている。

しかし、妻が三浦義村の娘であった関係から、宝治合戦で三浦軍に与し鎌倉法華堂にて三浦一族とともに一族もろとも自刃した。

残った大江一族は、それ以前に出羽の寒河江で蟄居していた親元の一族と、季光の四男で越後にいた毛利経光の一族だけとなった。

そう、この山形の寒河江氏は西の雄となった毛利氏と同じ一族なのである。

寒河江氏の所領は最盛期で約8万石と伝えられている。しかし、18代高広の時に、足利一門の斯波氏の末裔である山形城主・最上義光に1584年に討ち滅ぼされている。

その後、寒河江城は寒河江一族で最上軍に降った寒河江肥前の居城となるも、寒河江肥前が最上義光の死去時に殉死したことにより機能を停止した。

更に、最上氏の改易後に山形に入った鳥居忠政によって寒河江城は破壊された。今は、本丸跡が寒河江小学校となっている。


大江知廣夫妻の墓


【参考】毛利氏福原氏