岩屋城


2014年3月20日訪問

16世紀半ばに宝満城の支城として大友氏家臣の高橋鑑種によって築城された城。高橋鑑種は大友氏の庶流一萬田氏の一族、一萬田親泰の次男。後に、大蔵党の筑後高橋氏を継いだ。

大友義鎮の弟・晴英(大内義長)が大内氏の家督を継ぐに際して、これに従って大内家に入る。大内義長が毛利元就に敗れて自害した際には大友家への使者として立っていたあめに一命を取り留めたとされる。大友義鎮から毛利氏と対峙するために岩屋城築城を命じられるも、1562(永禄5)年に毛利方に寝返った。

高橋鑑種は秋月種実、龍造寺隆信を巻き込み、更に、宗像氏貞、筑紫惟門・鎮恒父子、原田隆種・親種父子も加わえて毛利元就・隆元父子の支援のもとで大友義鎮に対抗。対して、大友義鎮は戸次鑑連(立花道雪)、高橋鑑種の甥である鑑実らを派兵。しかし、1569(永禄12)年に尼子義久の家臣である山中幸盛が出雲に侵攻。これを退けるために毛利軍が九州から撤退。高橋鑑種は後ろ盾を失って大友義鎮に降伏。毛利元就に送られ小倉城主となった。

高橋氏の家督は大友家重臣の吉弘鎮理が高橋鎮種として名跡を継いだ。高橋鎮種は岩屋城と宝満城の二城を与えられ、大友家において北九州を管轄していた立花道雪を補佐した。立花道雪に請われて養子に出したのが立花宗茂である。

1586(天正14)年、島津義久は、島津忠長・伊集院忠棟に筑前への進撃を命じ総勢20000余人を派遣。大友方である岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増を攻めた。島津軍は岩屋城を猛攻。岩屋城の763名は島津軍を撃退し続けた。こ島津軍は高橋紹運に再三降伏勧告を送るも高橋紹運は拒否。立花城にあった実子の立花宗茂は吉田兼正ら援軍として派兵。しかし、最期は高橋紹運らは玉砕し落城した。


高橋紹運の墓所


九州の城館