大阪城

新大阪から大阪に出て、荷物を預けた後、大阪環状線に乗って大阪城公園へ。目当ては大阪城。2度目になる。

大阪城というと、豊臣秀吉のイメージが強い。しかし、この地に最初に本拠を構えたのは石山本願寺。そして、その石山本願寺を紀伊に追いやって城郭の建築を始めに目指したのは織田信長。

その織田信長が本能寺の変で倒れ、意思を継いだのが豊臣秀吉ということになる。築城が開始されたのは本能寺の変の翌年。その工事は秀吉が世を去る1598(慶長3)年まで継続された。

その姿が今見ることが出来る大阪城かというと、残念ながらそうではない。1600(慶長5)年に関が原の戦いで徳川家康が天下を掌握した後も、大阪城は豊臣秀吉の子・豊臣秀頼を城主として雄姿を示していた。

ところが、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、1615(慶長20)年の大阪夏の陣にて豊臣秀頼は徳川家康に攻められ自刃。大阪城は戦いによって大きく姿を損なった。その後、徳川幕府は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)を母とする奥平松平忠明(1583-1644)を大阪城主とし大阪城の復興に当たらせた。

奥平松平忠明が1619(元和5)年に大和郡山藩主となると大阪は直轄領となり築城の名手・伊勢津藩主・藤堂高虎(1556-1530)を普請奉行として全く新たに大阪城が豊臣秀吉の大阪城の上に築城された。本丸は完全に埋め立てられ、天守閣も豊臣時代は黒壁だったが白壁に改められた。

およそ10年の歳月を掛けて築城された新・大阪城も約40年後には天守閣が落雷によって失われた。これが豊臣秀吉の怒りであったかは確かめようもないが、ともかく、大阪の象徴である大阪城は江戸城と同じく天守閣のない状態のままで江戸時代の残りを過ごした。現在の3代目の天守閣は1928(昭和3)年に市民からの寄付によって再建されたもの。


大阪府の城館