真田丸出城

大阪城の出城として真田信繁(幸村)(1567-1615)が築城。

場所の現在でいうと、大阪環状線で大阪城公園駅から2つめの玉造駅。真田信繁(幸村)は豊臣秀吉によって取り立てられた越前敦賀城主・大谷吉継(1559-1600)の娘・竹林院(利世)(?-1549)を正室としている。

そして、大谷吉継の盟友である石田三成(1560-1600)が挙兵し関が原の戦いが勃発すると、石田三成、大谷吉継らの西軍に与する。

一方、兄の真田信之(1566-1658)は徳川家康に見出され本多忠勝の娘・小松姫を正室としていたことから東軍に与した。この兄の取り成しによって、西軍が敗れた後も死罪となるところを九度山配流となった。

そして、大阪冬の陣を迎える。この時、真田信繁(幸村)は大阪城の南面の防御が弱いと考え、笹山という小丘陵に東西2つの廓からなる出城を築城した。東廓の北門は大阪城に通じていた。

また、西廓は南面を三日月状に柵で固めたため真田丸出城は別名を偃月城と呼ばれた。ここから大阪城まで暗道を掘ったとされ、その跡が真田の抜け跡として、現在でも残されている。

写真の真田幸村銅像はイラストレータ成瀬浩一によるデザイン。三光神社の境内にある。


大阪府の城館