三春(舞鶴)城
桜で有名な福島県の三春にある古城址。今は建物部分は無い。訪れた際には修復工事が行われていた。細い道から入っていくので大型バスでの観光には向かないだろう。
私は逆に、そのひっそりとした感じが気に入っている。
三春城は城址ではあるが、目を瞑れば往時の姿を想起することが十分に可能だ。
築城は1504(永世元)年で田村義顕によると伝わる。田村氏は東北の名門であり、征夷大将軍である坂上田村麻呂を祖とする。
但し、田村庄司家は藤原姓であり、田村庄司家を承継した三春田村家は平姓であったことが知られている。
こう書くと、三春田村家は坂上田村麻呂の名を借りたように思えてくる。しかし、事実はもっと複雑であり、両田村家は同一氏族であり、家紋として坂上氏と同様に車前草を用いる事から、坂上田村麻呂と何らかの関係を持っていたとも考えられる。
この三春田村家を戦国大名化させたのは田村義顕。田村義顕が居城を守山城から三春城に移したことに始まる。田村義顕は田村四十八館を配置し、弟の月斎(顕頼)を軍師として領地を拡大した。
しかし、次第に蘆名氏、相馬氏、佐竹氏、岩城氏からの圧力を受け、田村義顕の子の田村隆顕は伊達稙宗の娘を妻として伊達家と同盟することで田村家の命脈を保った。
更に、田村隆顕の子の田村清顕も愛姫を伊達政宗に嫁がせ同盟を強固なものとした。ところが、田村清顕が亡くなると、子が無かったために、相馬家出身の清顕後室が当主の座を占めた。
こうした状況において、1588年に隆顕の弟で小野新町城主の田村顕盛が相馬義胤を三春に招き入れた。
これに対して、伊達派の橋本顕徳が合戦に及び、相馬義胤を三春城揚土門より撃退した。
その後、相馬・佐竹・蘆名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山で干戈を交え、伊達・田村連合軍が勝利。伊達政宗は三春城に入城すると、清顕後室を隠居させ、伊達の血を引く清顕の甥の田村孫七郎を田村宗顕として当主の座に据えた。
田村宗顕は豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったために1590年に改易。仙台藩白石城下に迎えられた。
三春城は松下氏の支配を経て、1645(正保2)年に、安倍貞任を一族の祖とする秋田俊季が5万5千石で入城し、以降、明治維新まで秋田家の居城となる。
しかし、帰農した旧田村家臣団は庄屋層を形成し勢力を温存した形となった。
江戸時代を通じて三春を居城とした秋田家は、もともとは津軽十三湊を本拠地としていたが、南部家の圧力で北海道に渡った後に能代を本拠として戻った檜山安東家と秋田に入った湊安東家に分裂。檜山安東家の下国愛季(1539-87)は両家を統一。
下国愛季が角館城主戸沢盛安との合戦の陣中で病没すると、その子の実季は元湊安東家嫡流の豊島城主・豊島通季と戸沢盛安・南部信直の連合軍によって檜山城に駆逐される。
しかし、松前城主・蠣崎慶広、赤宇曾治部少輔ら由利勢、津軽の大浦為信、越後の本庄繁長の加勢によって勝利を納めた(『湊合戦』)。
これによって、秋田家は近世戦国大名としての地位を確固としたが、関が原の戦いの不手際によって、常陸の佐竹家と入れ替えに常陸への転封を命じられる。
秋田実季は大阪夏の陣での不手際によって伊勢に蟄居を命じられ、子の俊季が三春へと転封になった。
こうして、秋田家が三春の城主となったのだ。三春城は本丸、二の丸、三の丸を中心とし、本丸には表門、裏門、三階櫓などが建造された。立派な石垣もあったようだが、その石垣も現在は建物と同様に明治の廃城によって失われている。
しかし、その名残は、繰り返しになるが確かに残されている。
2010年3月20日訪問