紀伊新宮城
紀州の新宮の熊野川の河岸にある浅野忠吉築城の城。
主郭部に、三層五階の天守閣を戴く本の丸、鐘の丸、松の丸が、その下に二の丸を配され、40を越える城門と櫓を伴った城。
浅野忠吉は紀州藩初代藩主・浅野幸長から、新宮2万8千石を分与された際に田鶴原という小高い丘に築城した。
田鶴原は源為義(鎌倉幕府初代将軍源頼朝の父・義朝の父)と熊野別当の娘・丹鶴姫の居宅があったとされる。
丹鶴姫の弟・源新宮十郎行家は、この地に新宮城の築城をした。源行家が源頼朝によって滅ぼされた後は、行家の血を引く堀内氏が代々居館を営んだ。
堀内氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に与したため、居館は浅野氏に引き継がれた。
浅野氏によって本格的近世城郭の整備がなされたが、浅野氏が広島へと移封され、代わりに、徳川頼宣が、紀伊和歌山城55万石の太守として封ぜられると、付家老の水野重仲が3万5千石で新宮に封じられた。
新宮城の完成は水野氏の手による。