土肥山城

壇ノ浦の戦いの後、1185(文治元)年に惣追捕使に任ぜられた土肥実平によって長府の地に築城されたと伝わる。

土肥氏は桓武平氏平良文流で相模国土肥郷を本貫の地とした(土肥氏館)。土肥次郎実平は中村宗平の子であり、源頼朝の挙兵時に中村一族を率いて石橋山の合戦に参加したことで源頼朝の厚い信頼を得た。

土肥実平・遠平父子は平氏滅亡の後に西国に多くの所領を得る。しかし、各地で荘園侵略を繰り返し貴族に訴えられたために、最終的には安芸国沼田荘地頭職のみを保持するだけとなった。

長門の地に築かれた土肥山城は、そんな土肥実平・遠平父子の絶頂期の城と言えるかもしれない。

なお、観応年間(1350-1352年)頃には長門守護である厚東太郎入道武実、あるいは、その子の武村が城主であったと伝わる。


山口県の城館