福原邸
1625(寛永2)年に福原元俊が宇部領8,000石に封じられて以来幕末まで政庁が置かれた地。
福原氏は毛利氏と同じく鎌倉幕府の重鎮である大江広元を祖とする。福原氏は大江広元の次男の時広が出羽国置賜郡長井荘を得て長井を名乗った。更に、後には備後守護職をも得ている。長井時広の子の長井泰秀の時に三浦氏と北条執権家が干戈を交える宝治合戦が起こる。この時、鎌倉にあった大江広元の四男の毛利季光は妻が三浦義村の娘であったことから敗れることを承知で三浦軍に参加し自刃。毛利氏は越後にいた四男の経光を除いて族滅。生き残った毛利経光を助け毛利氏の存続に尽力したのが同じ大江一門の長井泰秀と言われる。
南北朝時代の長井貞広は今川了俊に従って九州で戦い討死。討死の前に長井貞広は毛利元春の子の毛利広世を養子として迎えていた。もともと長井氏も毛利氏も同じ大江氏である。長井広世は毛利元春から安芸福原を所領として与えられ福原氏を名乗るようになった。これが安芸福原氏の始まりである。
毛利元春の嫡男の広房が安芸西条で討死したために孫の光房が毛利家惣領となると、室町幕府将軍足利義満の命令により福原広世は光房を支えることとなる。毛利光房の代には毛利惣領家と毛利庶家との対立が激化した時代。その渦中にあって福原広世・朝広父子は一貫して毛利惣領家を支える。福原元俊の父の貞俊は、吉川元春、小早川隆景、口羽通良と共に毛利四人衆と呼ばれた。