長門亀山城
後醍醐天皇が倒幕運動(元弘の乱)において大内弘幸は周防守護北条時直に加担。その経緯から鎌倉幕府が倒れると後醍醐天皇は鷲頭長弘を周防守護に任じた。そして、鷲頭氏が事実上大内一門の惣領となる。
足利直義派と高師直派とが対立する観応の擾乱が勃発すると、対立していた鷲頭長弘・大内弘幸は共に足利直義派に与する。
その後、鷲頭長弘が亡くなり次男の弘直が足利尊氏から周防守護に任じられる。その一方で、大内弘幸の子の弘世が南朝から同じく周防守護に任じられる。ここに対立が激化するが1354(正平7)年には鷲頭氏は大内氏の軍門に下ることになる。
鷲頭氏が周防国鷲頭庄から長門国深川に本拠地を移したのは鷲頭弘忠が大内盛見によって長門守護代として派遣されたことによる。鷲頭弘忠は深川城を築き本拠地とした他、大寧寺を創建した。大内盛見の子の教弘が大内家の当主となると鷲頭弘忠は長門守護代の職を解かれる。鷲頭氏の勢力の伸長を嫌ったためと言われる。鷲頭弘忠は大内教弘による討伐を予感し深川城の支城として築城したのが亀山城。これは大内軍が響灘から侵攻してくるとの想定から。しかし、大内軍は深川城の南側から侵攻。深川城を落城し鷲頭弘忠・弘貞父子を含めて鷲頭一族は族滅した。
鷲頭弘忠の墓