高嶺城

大内氏最期の当主である大内義長が毛利元就の侵攻に備えて1557(弘治3)年に築いた城。大内義長は豊後の大名大友義鑑の子。大友宗麟の弟に当たる。大内義興の娘は大友義鑑に嫁いでおり大友義鑑は大内義興の娘婿の関係にあった。大内義興の息子の大内義隆は1543(天文12)年に尼子晴久との戦いで養嗣子の大内晴持を亡くしたため、大友義鑑の次男・八郎晴英を猶子として大内家に迎え入れられた。

しかし、1545(天文14)年に大内義隆に義尊が誕生。それとともに晴英は大友家に帰された。

ところが、1551(天文20)年に大内家の重臣である陶晴賢が大内義隆に叛旗を翻し大内義隆・義尊を死に追いやる。その陶晴賢が大内家の新当主に迎え入れたのが大友晴英。1552(天文21)年に大友晴英は山口に迎え入れられ当主として擁立。翌年に室町幕府第13代将軍足利義輝から偏諱を受けて大内義長と改名。

陶晴賢は毛利元就に安芸国内の大内義隆支持派国人衆掃討を依頼。これを受けて、毛利元就は安芸頭崎城を攻め平賀隆保を滅ぼし平賀広相を擁立。平賀一族を毛利家臣団に組み込んだ。この迅速な動きに陶晴賢は毛利に警戒感を抱く。平賀広相は1555(弘治元)年に陶晴賢の使者を捕えて安芸国内における陶晴賢の暗躍を毛利元就に注進。毛利元就は嫡男・隆元や平賀広相の意見を聞き入れて、陶晴賢と厳島にて干戈を交える。村上水軍の加勢もあって厳島で毛利軍が勝利し陶晴賢は自刃。

陶晴賢を失った大内義長は急速に求心力を失い家臣団は半ば崩壊。更に、大内義長の兄である大友義鑑は毛利元就との間に大内領分割の密約を結ぶ。これによって大内義長は後ろ盾を完全に無くす。1557(弘治3)年に毛利元就は山口へと侵攻。衆寡敵せずと判断した大内義長は高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へと逃げ延びた。

山口を支配下においた毛利元就は高嶺城に市川経好を城番として置いた。市川経好は大内氏旧臣の杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児である問田亀鶴丸の挙兵を鎮圧したり、第14代当主・大内政弘の次男で謀反を起こし豊後大友氏のもとに亡命していた大内高弘の子の大内輝弘による山口攻略を撃退している。

1615(元和元)年に江戸幕府より一国一城令が出され、萩城を残して長府串崎城、岩国横山城とともに山口高嶺城も廃城となった。


参考:山口県の城館大内義長の墓所