千葉城
1126(大治元)年に千葉介常重が上総大椎城から本拠地を移して築城した亥鼻城の跡地に立つ模造天守閣の郷土館。
JR外房線本千葉駅あるいは千葉モノレールの県庁前駅から歩いて行ける。
源頼朝にいち早く与した千葉常胤が千葉城を居城としたかは定かではない。しかし、その館は千葉城の近くの地にあったのではないかとされている。
千葉常胤は胤頼と、孫の成胤に命じて下総国府を襲撃し制圧。1180(治承4)年9月17日に、源頼朝を下総国府に迎えた。一族の上総介広常に先立つこと2日。源頼朝は10月2日に現在の江戸川である太日川、隅田川を渡り、武蔵国を経て相模国の源氏ゆかりの地である鎌倉に入ることに成功。
これによって源頼朝の厚い信頼を得た千葉常胤は鎌倉幕府の中において有力な御家人としての地位を確固としたものとしていった。
千葉常胤の広大な所領は6人の子供達に相続された。これが千葉六党(りくとう)である。
千葉神社近くの祠に祀られている千葉常胤(1118-1201)像
常胤の長男である胤正は上総・下総両守護職を受け継ぎ両介と呼ばれ千葉氏を承継した。千葉氏は房総だけではなく、九州の小城郡、薩摩国の寄郡、五個郡などを領した。
常胤の次男で師胤とも呼ばれた師常は、下総の相馬御厨を受け継ぎ相馬氏の祖となった。1189(文治5)年の奥州合戦における戦功によって、陸奥国行方郡を拝領した。相馬氏は奥州相馬氏と下総相馬氏に別れて発展する。
三男の胤盛は胤成とも称し、千葉庄武石郷を譲り受け武石氏の祖となった。兄の常胤と同様に陸奥国行方郡に所領を得ている。武石氏は鎌倉時代の末には陸奥国に移住し亘理氏、涌谷伊達氏となった。
四男の胤信は千葉庄田部田郷と香取郡大須賀保を受け継ぎ大須賀氏の祖となった。大須賀胤信も奥州合戦の戦功によって陸奥国岩城郡に所領を得ている。
五男の胤通は下総国葛飾郡国分郷、香取郡本矢作を受け継いで国分氏の祖となった。
六男の胤頼は下総国木内庄、後に東庄となる立花庄、現在の銚子や旭に当たる三崎庄を承継した。
千葉氏は鎌倉時代、室町時代を通じて亥鼻城を本拠とし続けた。
しかし、1455(康正元)年に嫡流の千葉胤直が叔父・馬加康胤との間で争乱を生み、城を落ち延びて以降は荒廃するに任された。千葉氏第16代当主の千葉胤直・胤宣父子は千田庄の多胡城に逃れるも防戦しきれず自刃。弟の胤賢は子の実胤・自胤を伴って小堤城に落ち延びるも、小堤城も落城を余儀なくされ自刃。実胤・自胤は市河城に逃れ、市河城が古河公方方の梁田持助によって落城させられると、現在の江戸川である太日川と隅田川を渡り石浜城に逃れ扇谷上杉家の庇護下に入った。