下館城
武蔵野線、つくばエクスプレス線、関東鉄道常総線を乗り継いで下館へ。茨城県は隣の隣の県ではあるが少し遠い。下館は以前に結城城を訪問した際から足を伸ばそうとは考えていた地。下館駅に着いた時には昼になろうとしていたので駅前で昼食をと思ったが残念ながら食堂らしきものを見つけられず。結局、そのまま、日差しが非常に厳しい中を下館城を目指した。
下館という名前からして上館、中館があるだろうと想像するのは当然。そして、その通り。940(天慶3)年に藤原秀郷が平将門を討伐するために上館、中館、下館という三城館を築いたのが下館の始まりとされている。
ちなみに、中館は伊佐城と呼ばれ南北朝時代に仙台伊達家の祖である伊達行朝が拠点としたことで知られている。また、上館は久下田城と呼ばれ戦国時代に水谷蟠龍斎政村が居城としたことで知られている。
さて、下館城であるが、1478(文明10)年に水谷勝氏が藤原秀郷が築いた下館を拡張して築城したと伝わる。そもそも、水谷氏は下館を築いた藤原秀郷の七世の孫の景頼の子・親実が陸奥国岩城郡水谷の地頭となり水谷を称したのが始まり。水谷氏一族は後に常陸国に移り結城朝広に仕えたという。結城朝広は結城朝光の子。結城朝光も藤原秀郷を祖とする小山政光の子。1189(文治5)年に源頼朝による奥州藤原氏の征討における戦功によって奥州白河三郡を所領として得ている。結城家は結城朝広の子の結城広綱が結城本家を継ぎ、広綱の弟の結城祐広が白河三郡を承継した。つまり、結城朝広の代までは結城と白河は朝広の支配下にあったことになる。結城氏が領した白河と水谷氏が領した岩城郡水谷とは近接している。水谷氏が隆盛を誇る結城朝広に仕えたというのも首肯出来る。
水谷家は結城家の重臣として、水谷勝氏以降、勝国、勝之、勝吉、治持と続く。6代目の水谷政村の時に下館城を弟の勝俊に譲って久下田城に移ったという。水谷政村は結城政勝の娘婿であり結城四天王の一人として数えられた人物。豊臣秀吉による小田原征伐の後には結城氏から独立が許され独立した大名として5万石を領することとなる。但し、結城氏の与力大名という立場。
兄から家督を承継した水谷勝俊は結城晴朝の養子に徳川家康の子の秀康を迎える際、徳川家との交渉役として知られる。関ヶ原の戦いでは佐竹義宣を牽制した戦功により所領を安堵された。更に、結城秀康が越前北ノ庄に転封となると水谷家は結城家の与力大名ではなく独立大名となる。
勝俊の子の勝隆の代に備中成羽藩5万石へと転封。代わって、水戸徳川頼房の子の頼重が下館城に入って水谷家による下館支配は終わった。
松平頼重が讃岐高松藩へと転封となると、増山正弥、井上正岑、黒田直邦と続き、石川総茂が伊勢神戸藩から転封。以降は石川家が9代137年間下館を支配した。
参考:茨城県の城館