大給城

愛知県は豊田にある松平家発祥の地である松平郷の近くにある古城址。

ここは道路に標識が確かに出てはいるのだが、少し分りにくい。奥まった場所にある。ここを登るのかという道を登って、少し不安になりながらも城址に向う。

奥まった場所と言ったが、足助街道と新城街道が交差する九久平を見下ろす地に城は築かれている。つまりは交通の要衝を押える城だったということになる。

大給城を築城したのは長坂新左衛門であったが、松平郷の松平第3代松平信光が攻略。第4代の親忠が受け継いだ。信光・親忠は岩津に本拠を移した後は、親忠の次男の乗元が城主として残った。これが大給松平氏の始まり。

大給松平乗元の子の乗正は1510(永正7)年に掛けて大給城の大修築を行った。

その後、乗勝、親乗、真乗が城主を勤めた。

しかし、1590(永正18)年に第6代大給松平家乗が宗家である徳川家康の江戸入府に伴って、上野国那波郡内1万石(伊勢崎)を得たことにより、大給城は廃城となった。

ちなみに、大給松平家乗は関が原の戦いで三河吉田城の守備の功績によって美濃岩村2万石に加増されている。


三河の城館