京極氏館

関ヶ原の古戦場を堪能した後に、小谷城を見るために長浜へと向かった。京極氏館へは小谷城に向かった後で回るというのが当初の計画。しかし、目に飛び込んできたのは京極氏館を示す看板。関ヶ原と近江が、これほど近いという感覚は全く持ち合わせていなかったために驚きを隠せなかった。京極氏と言えば足利高氏を誘って鎌倉幕府倒幕の旗を挙げた佐々木道誉の家だ。もっとも、この京極氏館はその佐々木道誉ではなく、その子孫である京極高清(1460-1538)が築いたとされている。京極高清は1470年の京極持清の病没に端を発した京極騒乱を1505年に収めて家中の統一を実現している。そもそも、この騒動は京極持清とその嫡男である勝秀が相次いで病死したことから始まった。京極家中は勝秀の庶長子で持清の寵愛が厚かった乙童子丸(後の京極高清)を推す京極政光と飛騨守護代多賀清直と勝秀の嫡男である孫童子丸を推す京極政経、近江守護代多賀高忠と、らが争った。

一時は孫童子丸が家督承継に成功。近江、飛騨、出雲、隠岐守護職に補任された。しかし、補任の翌年の1471年に肝心の孫童子丸が夭折。

この期を捉えた乙童子丸派は六角政堯と対立していた六角高頼と組み六角政堯を討ち取る。更に、美濃守護代斎藤宗円の子である斎藤妙椿らの助勢を得て、孫童子丸派である京極政経、近江守護代多賀高忠を越前に駆逐。乙童子丸は1472年に京極家の家督を承継し飛騨・出雲・壱岐守護職に任ぜられた。

更に騒動は続く。京極政経、近江守護代多賀高忠は京極家の分国である出雲の国人衆を率いて近江に侵攻。応仁の乱において西軍の六角高頼と乙童子丸こと京極高清を破る。これに対して、西軍は美濃守護職土岐成頼と越前・尾張・遠江守護職斯波義廉を近江に派遣し再び京極政経を近江から追い払った。その後も京極高清と京極政経との一進一退の攻防戦が続く。しかし、1492年に京極政経が室町幕府第10代将軍足利義材の不信を買い失脚した事で京極高清に京極惣領職を認められるに至る。

但し、京極高清は斎藤妙椿の養子である斎藤利国の庇護を受けて対立する京極政経の侵攻を防いでいたというのが実態である。事実、1497年に斎藤利国が世を去ると美濃に退避を余儀なくされる。ところが、京極家の重臣である上坂家信によって京極政経は再び駆逐され、京極高清が美濃から迎え入れられる。京極政経は分国の出雲の守護代である尼子経久を頼って近江を落ちて行った。京極政経の子の京極材宗は浅井直種とともに尚も京極高清と干戈を交えた。結局、1505年に京極高清は材宗と和睦し長い家督騒動に終止符を打った。

こうした激しい争いを繰り返した京極高清が本拠地としていたのが上平寺城を詰め城とする京極氏館であった。しかし、この京極氏館は1523年に京極高清を補佐する上坂氏に不満を持つ浅見貞則、浅井亮政によって焼き払われてしまう。そして、ようやく家督騒動を収めた京極高清も北近江の地から追放された。この後、北近江を実質的に支配下に置いた浅井亮政は京極高清と和睦し高清と高広父子は浅井氏の居城である小谷城で庇護された。京極高清は死の前に再び京極氏館に戻っている。そこで、一体、何を見たのだろうか。

この京極高清の次男である高吉は家臣である浅井氏の庇護下に入ることを潔しとせず、同族であり南近江を支配する六角定頼を頼った。その高吉の子の高次が、後に浅井三姉妹の初を妻とした人物である。