丹後田辺城
京都府は舞鶴にある1580(天正8)年に細川幽斉こと藤孝が築城した古城。別名を舞鶴城ともいう。
関ヶ原の戦いで東軍に属したため猛攻にあった。落城に際しての天皇を巻き込んでの逸話で知られる。
今は警察署が門前を守っている。
細川幽斎(藤高)が織田信長から丹後国に封じられたのは1580年8月。
縄張りも細川幽斎(藤高)自身が手掛けた。細川幽斎(藤高)と言えば足利将軍家ゆかりの人物であり、古今和歌集の秘伝の継承者でもあった。
1582年の本能寺の変の際には叛旗を翻した明智光秀の誘いを断り、隠居の上で田辺城に籠っている。
更に、下って、1600年7月、息子の忠興が徳川家康に従って会津征伐に従軍中に、石田三成に与した小野木重勝、前田茂勝ら西軍の軍勢1万5000騎が押し寄せた。落城必至という状況の中で、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王が古今伝授の途絶を危惧し、調停に乗り出したという話は有名。結局は、八条宮智仁親王の調停を断るも、後陽成天皇による調停によって開城となった。
現在、城のある田辺の地は舞鶴と呼ばれているが、これは、田辺城の雅称が舞鶴城であったことによる。