一色古城(弓木城)

織田信長配下の細川藤孝・忠興父子は織田信長から離反した丹後守護の一色義道を討つために丹後に侵攻。1578年のことだ。

一色家も細川家も足利将軍家に連なる家柄という点では遠い親戚同士ということになる。

最初の侵攻は一色義道の奮戦によって撃退される。

ここで、細川父子は明智光秀に救援を求め、一色方の中山城主・沼田勘解由が寝返ったことによって、一色義道を討ち死に追い込んだ。

しかし、義道の嫡男である義定は家臣の稲富直家が城主を務める弓木城に本拠を移した上で徹底抗戦し大船山の細川陣営を襲撃。兜首190余を挙げた。

ここに至って、細川藤孝は一色義定侮りがたしと見て、娘を嫁がせた。

ところが、細川藤孝は一色義定を舞鶴城に招待し、沼田勘解由に暗殺させた。吉原城にあった叔父の吉原義清は直ぐに弓木城に籠城し一色義清として一色家を承継。

これに対して、勢いに乗る細川軍は吉原城、宮津城に続いて、1582年に弓木城を落城させ、一色義清を自刃させた。

ここに室町幕府の名門である一色家の嫡流は滅んだ。