弘前城

弘前(津軽)城の桜は見事だと聞いていた。その見事な桜を見るために弘前へ。弘前に宿を予約出来れば良かったものの、果たせず青森に宿を取る。桜の時期の弘前は、それほどの混み様。

途中、八戸の手前で線路に人が立ち入ったとの由で新幹線が徐行。15分程の遅れで八戸で乗り換え。青森の新鮮市場にて昼食を採った後に弘前へ。強風のために、野辺地から青森間で徐行になっていたために電車が到着せず20分ほど駅のホームで待つ。

そうして、念願の弘前へ。

駅前からシャトルバスにて迷うことなく弘前(津軽)城へ。

この城は弘前初代藩主である津軽為信(1550-1608)が計画し、2代藩主である信牧が3重の堀をもって構えた平山城。

津軽為信は大浦城主大浦氏を承継した後、1578(天正6)年に浪岡御所・北畠顕村を浪岡城に破ったことによって津軽一帯を支配下に納めた。

大浦氏を南部氏の一族と看做す南部氏の抵抗に遭うも、石田三成と誼を通じることによって津軽の支配を認められた。こうした経緯から、関が原の戦いでは為信と三男の信牧は東軍に与したが、嫡男の信建は豊臣秀頼の傍に仕えた。更に、西軍敗戦後は信建は石田三成の子・重成を弘前に連れていき庇護している。

この間、津軽では西軍派が大浦氏の居城である堀越城を占拠するなどして混乱した。こうした混乱を一掃するため弘前城が計画された。しかし、混乱はそれだけではなかった。

津軽為信が京都で客死する直前に嫡男の信建が死去。津軽氏と名乗った大浦氏の家督は信牧と、信建の嫡男である熊千代の間で争われた。結局は幕府の裁定によって信牧が2代目となっている。

そもそも、老中・本多正信は熊千代を支持したが老中・安藤直次(紀州藩附家老)によって信牧が藩主と定まったとされている。

その直後、2代目藩主津軽信牧は熊千代を擁立した津軽(大河内)建広が大光寺城に篭城。藩主軍との間で激闘が繰り広げられた。

こうした混乱の余韻が色濃く残る中で、1611年に信牧は弘前城に移ったのである。

本丸、北の丸、二の丸、三の丸、四の丸、西の丸で構成される城のそれぞれの廓の門の全てに鯱が上げられている。これは全国でも弘前だけだと教えられた。北の雄である津軽氏の心意気といったところか。東北地方唯一として現存している天守閣は9代藩主寧親の時に蝦夷地警備の功によって10万石に格上げされた際に櫓を改築する形で再建されたもの。1810(文化7)年のこと。

2010年5月1日(土)訪問。


東北の城館