佐渡妙宣寺
真野の町の近くにある古刹。この寺は日蓮が佐渡に配流にされた時に身の回りの世話をした阿仏房日得が自宅を寺とした事に起源を持つ。日得は文覚上人の曾孫という。文覚と言えば神護寺再興を後白河天皇に強訴したために伊豆に配流され源頼朝と親しくなり鎌倉幕府がなると側近として活躍した人物。但し、頼朝の腰巾着ではなく、平維盛の遺児である六代の助命を願ったりもしている。
筋を通す人物であった文覚であったが、源頼朝が亡くなると後鳥羽院による朝廷内の親幕府派一掃の煽りを受けて佐渡に配流処分となった。彼が佐渡にある間に六代は処刑され、幕府と朝廷の関係も再構築されている。後鳥羽院の側近である源通親の死去に伴い許されるが、後鳥羽院への舌鋒の鋭さは変わらず再び配流処分となり直後に世を去った。
日得は後鳥羽院の子である順徳天皇に仕えた。文覚は鎌倉幕府に近い立場であったが、日得はその鎌倉幕府に戦いを挑んで(承久の乱)、敗れた順徳天皇に仕えたのである。そして、順徳天皇が佐渡に流されると付き従い崩御するまで仕えた。この辺りの筋の通し方は文覚の血脈であろうか。順徳天皇崩御の後は阿仏坊と称して浄土宗に帰依した。ところが、1271(文久11)年に日蓮が佐渡に配流されると弟子となったのである。
1221年が開創と伝わるのは、この年に日得が遠藤左衛門尉為盛として順徳天皇の配流に従って佐渡に来た年であることによる。
参照:五重塔