河津三郎祐泰の墓
伊東祐親の子である河津祐泰は従兄弟であり、工藤家の嫡流であった工藤祐経との間の所領争いがもとで、1176(安元2)年に工藤祐経によって殺害されてしまう。そもそも、工藤祐隆が嫡男祐家の早世後に、後妻の連れ子である水草との間に設けた子である祐経に伊東荘を与え、祐家の子である祐親には河津荘を与えた事が原因。伊東荘を相続した祐経が早世した事で本来の嫡流である祐家が伊東荘を取り戻し、祐経の子の工藤祐経が逆に奪還を狙っていた。
そこで、工藤祐経は伊東祐親を殺そうとしたところ、誤って子の祐泰を殺害。
河津祐泰の遺児である一萬丸と箱王丸は母の満江御前が再嫁した曾我祐信のもとで育てられた。伊東祐親は最後まで源頼朝に敵対し、敗れて囚われた後も臣従せず自刃。これによって、伊豆の名門である伊東氏の直系であるはずの兄弟は苦しい立場に追い詰められる。
一方で、工藤祐経は御家人としての地位を固め、子の祐時に伊東氏を承継させる。これを不服とした河津祐泰の遺児である曾我兄弟は敵討ちを行った。
ちなみに、この河津祐泰の墓のある東林寺の向かいの山には父親の伊東祐親の墓がある。