松平氏墓所

三河松平郷の高月院にある。江戸幕府を開いた徳川家康(松平氏9代)の祖先である松平氏初代の親氏、2代泰親、そして4代親忠夫人が葬られている。

「三河物語」や「寛政重修諸家譜」によると上野の新田氏の親族である世良田氏の血をひく親氏室町将軍家である足利氏に敗れて僧侶にみを窶して諸国を放浪。三河松平郷の松平太郎左衛門信重の娘婿になって還俗。郷敷城(松平城)を築いて本拠としたと伝わる。

親氏が死去した際に、信広と信光の二人の子は若かったために、親氏の弟の泰親(祐金斎)が2代目となった。

後に、岩津攻めの際に親氏の嫡男であった信広は重傷を負ったために太郎左衛門家として松平郷に残った。

一方、信広の弟の信光は岩津城主として松平宗家となった。4代親忠夫人は親忠の第4子で高月院第7代住職である超誉存牛上人の手によって葬られた。墓塔は宝篋院塔であり室町時代中期から後期のもの。

つまり、親氏、泰親などの時期と一致する。

但し、江戸時代に入って文政年間に第11代将軍・徳川家斉が墓域を修復した他、明治時代に入って明治23年に旧大和郡山藩主柳沢保申が修築している。

この松平郷の地が確かに松平家・徳川家の発祥の地であることの証拠がここにある。

中央が親氏の宝篋院塔であり、向って右が泰親の宝篋院塔。