明智光秀首塚

天下布武を唱えた戦国の覇者織田信長は、1582(天正10)年に京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた。明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と並び称された織田家の出世頭。信長を討ち取ったものの、遺体を見つけることが出来なかった光秀は中国から大返しをしてきた秀吉と山崎(天王山)の戦いを戦い敗れ、本拠地である近江の坂本城へと逃げ帰る途中で小栗栖の竹薮で農民の槍に掛かって負傷。已む無く自刃して果てた。光秀の首は家臣が持って逃げ知恩院の近くの現在地に埋めたという。秀吉が見つけて晒したという光秀の首が埋められたのか、それとも、晒されたのは別の首で本物が知恩院のそばの現在地に埋葬されたのか。定かなことは分らない。

【参照】勝龍寺城址明智塚