勝龍寺城址

京都は長岡京にある室町幕府管領・細川氏ゆかりの城。

1339(暦応2)年に細川頼春(1304-1352)が南朝軍から京都を防衛するために築城。当初、兄の細川和氏が嫡流であった。

しかし、和氏の子・清氏が佐々木道誉の策謀により幕府から追討を受ける身となり、南朝軍に転じ讃岐の白峰城を拠点に従兄弟で阿波守護細川頼之に対抗し討死。これによって、和氏の弟・頼春が嫡流となる。

その頼春は南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経が京都に攻め入った際に、足利義詮を守って、七条大宮付近で討死した。

その後、応仁の乱(1467-)では勝龍寺城は細川勝元の東軍ではなく、西軍の畠山義就の城となっている。

勝龍寺城が再び細川氏の手に戻るのは、1568(永禄11)年に織田信長が京都を制圧し、細川藤孝(1534-1610)に城を与えた時。細川藤孝は和泉守護細川元有の子・三淵晴員の次男として生まれる。しかし、12代将軍・足利義晴の落胤との説も根強い。その後、父の兄・和泉半国守護細川元常の養子となり細川を名乗る。

当時、勝龍寺城は三好三人衆の岩成友通(-1573)が城主を勤めていた。

ここを織田信長が攻め落とし細川藤孝を城主としたのである。

明智光秀の娘・玉(細川ガラシア)が藤孝の子・忠興のもとに嫁いだのも、この勝龍寺城。

その間、かつての勝龍寺城主・岩成友通は最後の将軍・足利義昭が追放された後に織田信長に叛旗を翻し、細川軍によって淀城にて討ち取られている。

その後、細川藤孝は室町幕府四職家の一つで丹後守護の一色義道(-1579)を足利義昭を匿ったという理由で建部山城から逐っている。一色義道の子・一色義定(-1582)は弓木城にて徹底抗戦。これを攻めあぐねた細川藤孝は明智光秀の仲介によって、藤孝の娘・伊也(菊の方)を一色義定に嫁がせて和議とした。

これによって、細川藤孝は丹後11万石を織田信長より与えられ居城を宮津城に移し勝龍寺城を去った。ちなみに、三条西実枝から古今伝授を受けたのも勝龍寺城だった。

1582(天正10)年に、明智光秀が本能寺の変を起こし織田信長を討ち取り、豊臣秀吉と天下分け目の戦いを演じた山崎の戦いでは、明智光秀が勝龍寺城に陣を置いている。光秀は主戦場となった天王山から勝龍寺城に撤退し坂本城に落ち延びる途上で小栗栖の藪にて襲撃され落命した。

これ以降、勝龍寺城は淀古城に部材が転用されるなどして荒廃。江戸時代の1633(寛永10)年に永井直清が山城長岡藩主となり修復を行うが、高槻藩に転封になり廃城となった。

最寄り駅はJR長岡京駅になる。帰りは嵐山に赴くためタクシーで阪急の長岡天神駅へと向かった。

【参照】明智光秀首塚明智塚