崇徳天皇廟
京都の祇園にある祇園歌舞錬場の裏側にある。ここへは昨年、正確には2011年の正月にも足を向けている。しかし、場所がよく分からずに訪れることが出来なかった。今回は場所をしっかりと確認して辿りつけた。それほどにひっそりとしている。
崇徳天皇(1119-1164)は鳥羽天皇と待賢門院こと藤原璋子との間に生まれている。しかし、実は鳥羽天皇の父親である白河法皇と待賢門院との間に生まれた子であるとの噂が絶えなかった。鳥羽天皇も噂を信じ、崇徳天皇を叔父子と呼んでいたという。
鳥羽天皇は美福門院こと藤原得子との子である体仁親王を近衛天皇として即位させ崇徳天皇を退位させた。もっとも、崇徳天皇の皇子である重仁親王を美福門院の養子として迎えている。
しかし、近衛天皇の崩御により、異母兄である後白河天皇が子の二条天皇への中継ぎとして即位する。これによって、崇徳上皇は院政を布くことが不可能な立場に追いやられた。
1156(保元元)年に鳥羽法皇が崩御。鳥羽法皇は最後まで崇徳上皇を嫌い面会を断ったという。その鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇が軍勢を集めているという噂が飛び交う。後白河天皇は直ちに崇徳上皇の側近である藤原頼長の東三条邸に源義朝を派遣し邸宅を接収。いわゆる保元の乱の勃発である。崇徳上皇は鳥羽田中殿を脱出し白河北殿に、藤原頼長とともに入る。
崇徳上皇は平忠盛が重仁親王の後見人であったことから、平忠盛の息子の清盛が味方に馳せ参じる事を期待した。ところが、清盛の継母である池禅尼の命によって後白河天皇方に付いてしまう。これによって勝敗は決定的となり、崇徳上皇方は敗北。讃岐に配流された。
讃岐では仏教三昧の日々を送っていた崇徳上皇であったが、写本を京都の寺院に納めたいとの願いを朝廷に拒絶されたことにより、「「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」との言葉を残し、後に崩御したという。
後白河法皇は崇徳上皇の怨霊を恐れ崇徳上皇の御所があった春日河原に崇徳天皇廟を1184(元暦元)年に建立。廟所は1467(応仁元)年に焼失して以降、荒れるに任された。1497(明応6)年に東山安井の光明院住持・幸盛上人が後土御門天皇の綸旨によって、崇徳上皇の寵妃であった阿波内侍の住居跡であった光明院に崇徳天皇廟を再興。これが現在の崇徳天皇廟所に当たる。