木曽義仲公首塚
京都の八坂の塔の名で知られる法観寺の境内にある。
木曽(源)義仲(1154-1184)は、源為義の二男・義賢の子。鎌倉幕府を開いた源頼朝とは従兄弟の関係に当たる。
そして、源頼朝の兄の鎌倉悪源太義平は源義賢を大蔵館に討ち取っているという因縁の仲。以仁王の子・北陸宮の即位を主張したことから後白河法皇と対立。後白河法皇は源頼朝に木曽義仲の排斥を命じる。
その間、木曽義仲が平家軍追討のために、京都を離れると法皇側が京都を制圧。
対して、平家軍に水島の戦いで敗れた木曽義仲は急遽京都に戻り、法住寺合戦によって後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉してクーデターを行い征夷大将軍となる。
しかし、源頼朝軍の源義経・範頼に追い詰められ、北陸を目指して都落ちするも、最後には今井四郎兼平と二人になり近江の粟津にて自害。その首は六条河原でさらされた後、法観寺の境内に葬られたという。
【参照】平清盛西八条殿跡、六代御前の墓、源頼朝公墓所、平相国廟