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プラトン[Plato(427-347 B.C.)]や新プラトン主義の祖プロティノス[Plotinos (204-269)]といった美学の先駆者にとって、美と善は分かちがたく結びついていた。プラトンは感覚の向こうにあるイデアを最高の美とし、藝術とはその感覚的な対象を模倣(ミメーシス[mimesis/μιμησι])するものだと考えた。
ちょっと分かりにくいけれど、プラトンは、つまりは、現実の世界に存在している全ての物事は遥かかなたにあるイデア(理念、観念)というものの模倣(ミメーシス[mimesis/μιμησι])だとした。藝術は現実を描写するものだから、イデア(理念、観念)の模倣(ミメーシス[mimesis/μιμησι])の模倣(ミメーシス[mimesis/μιμησι])ということになる。藝術を理想的なものから遠ざかった位置に置いたのだ。
このようにプラトンの段階では藝術の創造的な側面は無視されていた。
確かに日曜画家による自然の風景の描写は単なる模倣(ミメーシス[mimesis/μιμησι])、コピーかもしれない。しかし、そこにも創造性が存在することは写真にも創造性があることを考えれば分かる。
そして、アリストテレス[Aristotle 384-22 B.C.]は「ありのままの自然の中に、芸術を見出すことはできない」とした上で「芸術とは、新しい形式の創造的産出である」とした。これで、藝術というものの創造性がクローズアップされたことになる。
20世紀の記号論者パース(Charles Senders Peirce[1839-1914])は言う。この世界の全ての物は記号から成り立っていると。社会的な事柄だけではなく、自然もまた記号の集合であると。
藝術は、そうした記号を紡ぎ出し、再構成する作業なのだろうか。
もし、記号を紡ぎ出し、再構成する作業が藝術であるとして、17世紀のオランダの画家フェルメール(Johannes Vermeer[1632-75])のようにカメラ・オブスクラ(camera obscura)というカメラの前身を用いて描かれた絵画は記号を再構成しているかは議論の対象と成り得る。事実、美術評論家シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire[1821-67])などは『写真はその本来の役割である、科学と芸術の召使いという立場に戻らなければならない』と写真の藝術性に大きな疑問を呈した。
このようにして、藝術の創造性がクローズアップされ、藝術を記号を紡ぎ出し再構成する作業と位置づけしたところで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant,1724-1804)が主観的な判断だとした「美」がどのようにして生まれるのか、美しいと感じるのはどうしてなのかといった根本的な問題には何も答えていない。
また、日本の藝術を貫く『幽玄の美』では美には完成されるということがない。作品ただそれだけで最高の美は存在していないということになる。これは、丁度、ヤスパース(Karl Jaspers[1883-1969])が「藝術は超越者の暗号文字」という言葉で述べたように余情の必然性と結びついて、無限に開かれた非完結性を要求する。こういった藝術観、美学は古代ギリシアから始まりヘーゲル(G.W.F.Hegel[1770-1831])によって完成された合理性の枠組みだけで美を見ようとする形而上学的美学の伝統よりは、理性という普遍的本質をはみ出た「実存(existenz)」に注目するキェルケゴール(S.A.Kierkegaard[1813-1855])やニーチェ(F.W.Nietzsche[1844-1900])の美学に近いのではないだろうか。キェルケゴールはどんな場合にでも通用するどんな人にも当てはまる普遍的な大真理なんかよりも、個々人が生活していく上で意味があるような一人ひとりの真理が大事だと考えた。それが実存主義の考え方であり、毒矢で傷ついた人を前にしては矢の本質の解説よりも傷の手当が必要だとしたガウタマ・シッダールタ(Gautama siddhaartha[BC560-BC480])の考え方に近い。
つまり、美を前にしては美とは何かを問うことよりも美を堪能することのほうがはるかに大事ということになる。そして、ホモ=サピエンスとしての人が遥か昔から数々の素朴な藝術作品を生み出し、それを目にしてきたが、そこに観たものは藝術ではなくて心であったということにも注意しておく必要がある。藝術と認知の逆転と呼ばれる、こうしたことも藝術が単に客観的な要素に還元出来ないということと大いに関係している。奇しくも、キェルケゴールが「真理とは主観的だ」と述べていることは「藝術と認知の逆転」を指しているように思われる。
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