プリンスの森から

プリンスの森

武蔵村山の大南には『プリンスの森』と呼ばれる場所がある。もはや大部分は住宅街になってしまっていて森の面影はない。
この場所がプリンスの森と呼ばれているのは、旧日産自動車村山工場の前身プリンス自動車村山工場に隣接していたからに他ならない。
1959(昭和34)年、富士精密機械工業(株)が自動車事業五ヵ年計画の一環として北多摩郡村山町、砂川町に乗用車工場新設を内定。これは青梅、羽村、五日市、埼玉県日高、神奈川県日吉(川崎)などの候補地を抑えての決定であった。
当時、発展の糸口を探っていた村山町にとっては工場誘致は鉄道誘致と並んでの悲願。村山町側では原山、萩の尾、赤堀、中村、横田、馬場地区が具体的候補地となり地区代表と富士精密との交渉に入る。結果として、この交渉は価格に折り合いが付かず町長による先行交渉という形に切り替わる。この間に砂川町側の土地買収交渉は進展。これを受けて、地主代表者・工場誘致委員会と富士精密との個別交渉から町議会による仲介交渉を行うようになっていく。
村山側の買収交渉がまとまったのは、富士精密が社名をプリンス自動車工業と変えた1961(昭和36)年2月の翌月。
こうして紆余曲折を経て自動車工場が村山に誘致された。その名残が『プリンスの森』。日産自動車村山工場が更地となった今では唯一の名残。

ちなみに、『市史』は『昭和35年事務報告書』から次ぎの言葉を引用している。

「文化都市東京の一隅に置去られようとした、村山町に本日こそ何物か躍動するものを感ぜざるを得ない」

次ぎに武蔵村山市に躍動をもたらすものは何だろうか。