マナセス年代記


ブルガリア、1969.3.8発行。
ブルガリア捕虜となった東ローマ皇帝ニケフォルス。

東ローマ(ビザンティン)皇帝ニケフォロス1世((Nicephorus I the General Logothete[在位802-811]))は女帝エイレーネ(Irene the Athenian[755-803、在位797-802])を廃して帝位に就いた。
当時、レオ3世(Leo III the Isaurian [675-741、在位717-741] )の開いたイサウリア(シリア;Isaurian dynasty)朝がイコン破壊派とイコン擁護派との間で揺れていた。レオ4世の后であったエイレーネは自分の息子でイコン破壊派に取り込まれたコンスタンティノス6世(Constantine VI the Blinded[771-797、在位780-797])を廃し自ら帝位に就く。ところが、テマ長官などイコン破壊派を権力の座から追い、ビザンティン帝国は混乱を極める。その間隙を突いて、アッバース朝がビザンティン領小アジアに侵攻。これに危機感を覚えた財務長官ニケフォロスが革命によって女帝エイレーネを廃し自ら帝位に就いた(802年)。
その後もビザンティン帝国の危機は続く。今度は、ブルガリア帝国が帝国領を脅かす。これに対して、皇帝ニケフォロス1世は遠征軍を派遣するも軍隊内部の叛乱によって失敗(807年)。
続いて、811年には皇帝ニケフォロス1世が自ら軍を率いてブルガリア帝国(-1018)に侵攻。首都ブリスカを占領する。しかし、バルカン山脈のヴェレガヴァにおけるヴェレガヴァの戦い(Veregave)において、ブルガリア帝国のクリム汗(Krum)が反撃、ビザンティン帝国軍は総崩れとなり、皇帝ニケフォロス1世は命を落とした(811年)。
ブルガリアのクルム汗はニケフォロス1世の頭蓋骨を酒盃としたというから、小谷の戦いで義兄織田信長との戦いに敗れて自刃、頭蓋骨を酒盃とされたという浅井長政(1545-1573;正親町三条内大臣実雅の子の公綱の子孫、浅井家最後の当主)を彷彿とさせる。
ちなみに、皇帝ニケフォロス1世が帝位に就いていた802年から811年というのは、日本でいうと桓武帝(在位781-806)とその子の平城帝(在位806-809)、嵯峨帝(在位809-823)の治世に当たる。平城帝は病気を理由として弟の嵯峨帝に譲位したものの重祚を狙って薬子の乱(弘仁元[810]年)を起こしている。