ルーベンス、「アドニスとビーナス」
ブータン発行。1991年2月。1001,55-3410
アドニス(Adonis)はギリシヤ神話に登場する絶世の美男。
フェニキア(Phoenicia)王キニュラス(Cinyras)と聖処女ミュラ(Myrrha)の子とされる。
聖処女ミュラ(Myrrha)はキプロス王ピュグマリオン(Pygmarion)の血をひく。キプロス王ピュグマリオン(Pygmarion)は女神アフロディテ(Aphrodite、英語名でヴィーナス)をモデルとして彫刻を制作、ガラティアと名付ける。アフロディテはピュグマリオン(Pygmarion)が彫刻に恋をしていることを悟り、ガラティアに命を吹き込む。
そして、ピュグマリオン(Pygmarion)はガラティアと結ばれる。間に生まれた子がパポス、孫がキニュラス、そして曾孫が聖処女ミュラ。
このミュラはとても美しかった。そして、創造主であるアフロディテよりもミュラのほうが美しかったという評判が立つようになる。この噂を聞いたアフロディテはミュラに魔法をかけて実の父であるキニュラスとの恋に落とす。
ミュラはアドニスを身ごもった後に悲観して香木となってアドニスを産み落とす。
アフロディテはアドニスを箱に入れて、ゼウスと収穫の女神デメテルの娘であり冥界王妃ペルセポネ(Proserpine)に開けないように誓わせて託す。
しかし、ペルセポネは誘惑に抗しきれず箱を開け、美しきアドニスに恋をしてしまう。
そこで、アフロディテとペルセポネはアドニスを巡って争う。そう、アフロディテもアドニスの美しさにまいってしまっていた。二人は、藝術の女神ミューズの一人、カリオペが主催する裁判所に判断を委ねる。裁判所の判決は1年の3分の1をアプロディテと共に過ごし、3分の1をペルセポネと共に過ごし、残りの3分の1をアドニス自身の好きなように過ごすようにというものだった。
ところが、アフロディテが判決を守らなかったために、ペルセポネはアフロディテの愛人アレスを焚き付けて狩りに出たアドニスをイノシシを使って殺害する。
事の次第を知ったアフロディテは冥界王ハデスにアドニスの蘇生を嘆願する。ペルセポネの夫でもあるハデスはアドニスを冥界から戻す代わりに風の花アネモネとして、この世に戻した。
ロヒール・ファン・デル・ヴァイデン、「フィリップ善良公」
フランス、美術シリーズ、1969年
ブルゴーニュ公家はフランス・カペー朝(987-1328;ユーグ=カペーからシャルル4世に至る王朝)の2代目ロベール2世の子のロベール(1031-76)がブルゴーニュ公に封ぜられたの始まりとする。
しかし、この家系はブルゴーニュ公家第12代フィリップ・ド・ルーヴル(1349-61)で断絶。
カペー朝断絶の後に国王選挙会議で擁立されたヴァロワ伯爵家によるヴァロワ朝第3代国王シャルル5世の弟フィリップ(豪勇公,ル・アルディ,1363-1404)が1363年にブルゴーニュ公となって再興。
ちなみに、従姉妹のイザベルの子であるイングランド王エドワード3世が、このヴァロア伯爵家の擁立に異議を唱え百年戦争の契機となる。
さて、フィリップ豪勇公はフランドル伯マルグリットとの婚姻によって、1384年に神聖ローマ皇帝からブルグンド伯領を、フランス王からフランドル伯領とアルトワ伯領を受けて王家である直系ヴァロア家に対抗する領土基盤を有するようになる。
初代フィリップ豪勇公の跡をジャン無怖公(サン・プール,在位1404-19)が継承。ジャン無怖公は、1392年にヴァロア王家のシャルル6世が精神異常となった後にシャルル6世の弟であるオルレアン公ルイと対立。
この過程で、ジャン無怖公はイングランドと結び、更に1407年にはオルレアン公ルイの暗殺に及ぶ。
ルイの子、オルレアン公シャルルはアルマニャック伯の娘との結婚によってアルマニャック伯と結び王太子シャルルを擁立してブルゴーニュ公に対抗。
しかし、ジャン無怖公と通じたイングランド王ヘンリー5世が1415年にフランスに進軍しアルマニャック伯を壊滅状態に追い込む。
勢いを得たジャン無怖公はパリを制圧し王太子シャルルと和議を試みるがアルマニャックの残党によって暗殺される。
その跡を継いだのがフィリップ善良公(ル・ボン,1419-67)。
ルーヴル美術館が所蔵するロヒール・ファン・デル・ヴァイデンの肖像画の主。
フィリップ善良公は、1420年にトロワの和約を結びイングランドとの間に同盟関係を樹立。
この和約によって1420年に、フランス王シャルル6世の娘とイングランド王ヘンリー5世が結婚。翌年に生まれたヘンリー6世がフランス王位継承権を取得する。
そして、その翌年にはフランス王シャルル6世とイングランド王ヘンリー5世がこの世を去ったことでヘンリー6世がフランス王にしてイングランド王という地位を得る。
イングランド王家はフィリップ善良公の義弟であるベドフォード侯が差配し、フランス王太子シャルルを追い詰めていく。
ところが、イングランドと同盟を結んでいたブルゴーニュ公フィリップ(善良公)は次第にイングランドから距離を置くという態度をとるようになる。
蛇足だが、このような状況の中で、ジャンヌ・ダルクが活躍している。
ヴァロア王家と先鋭に対立したブルゴーニュ公フィリップ(善良公)は最後には、1435年のアラスの和約で戴冠した王太子、シャルル7世と和解する。