プッサン、「エコーとナルシッソス」


POUSSIN,"ECHO ET NARCISSE"

プッサン、「エコーとナルシッソス」


POUSSIN,"ECHO ET NARCISSE"

プッサン、「サフィラの死」


POUSSIN,"THE DEATH OF SAPPHIRA"

プッサン、「サフィラの死」


POUSSIN,"THE DEATH OF SAPPHIRA"

デューラー、「エラスムス」


DURER,"ERASME"

ガブリエル・ドレイア、「聖ルカと聖母子と聖フローリン」


ガブリエル・ドレイア(1580-1631)
リヒテンシュタイン、1997.6

ラファエロ、「サン・シストの聖母」


、モンゴル、1983.12発行、1332、55-5456

佩用十字架


Pectoral Cross From Martvili(7-9世紀)、グルジア、2002.9発行、44-5239

ラ・トゥール、「詐欺師」


LA TOUR,"LE TRICHEUR"

ラ・トゥール、「詐欺師」


LA TOUR,"LE TRICHEUR"

藤田嗣治、「キリスト降誕図」


ダホメ共和国、1968.11発行

藤田嗣治、「聖母子」


ダホメ共和国、1968.11発行。
ダホメ共和国は旧フランス海外領土、1960年8月に独立。1975年11月にベニン共和国に国名変更。

藤田嗣治、「キリスト洗礼」


ダホメ共和国、1968.11発行

藤田嗣治、「受胎告知」


ダホメ共和国、1968.11発行

マナセス年代記


ブルガリア、1969.3.8発行。
ブルガリア捕虜となった東ローマ皇帝ニケフォルス。

東ローマ(ビザンティン)皇帝ニケフォロス1世((Nicephorus I the General Logothete[在位802-811]))は女帝エイレーネ(Irene the Athenian[755-803、在位797-802])を廃して帝位に就いた。
当時、レオ3世(Leo III the Isaurian [675-741、在位717-741] )の開いたイサウリア(シリア;Isaurian dynasty)朝がイコン破壊派とイコン擁護派との間で揺れていた。レオ4世の后であったエイレーネは自分の息子でイコン破壊派に取り込まれたコンスタンティノス6世(Constantine VI the Blinded[771-797、在位780-797])を廃し自ら帝位に就く。ところが、テマ長官などイコン破壊派を権力の座から追い、ビザンティン帝国は混乱を極める。その間隙を突いて、アッバース朝がビザンティン領小アジアに侵攻。これに危機感を覚えた財務長官ニケフォロスが革命によって女帝エイレーネを廃し自ら帝位に就いた(802年)。
その後もビザンティン帝国の危機は続く。今度は、ブルガリア帝国が帝国領を脅かす。これに対して、皇帝ニケフォロス1世は遠征軍を派遣するも軍隊内部の叛乱によって失敗(807年)。
続いて、811年には皇帝ニケフォロス1世が自ら軍を率いてブルガリア帝国(-1018)に侵攻。首都ブリスカを占領する。しかし、バルカン山脈のヴェレガヴァにおけるヴェレガヴァの戦い(Veregave)において、ブルガリア帝国のクリム汗(Krum)が反撃、ビザンティン帝国軍は総崩れとなり、皇帝ニケフォロス1世は命を落とした(811年)。
ブルガリアのクルム汗はニケフォロス1世の頭蓋骨を酒盃としたというから、小谷の戦いで義兄織田信長との戦いに敗れて自刃、頭蓋骨を酒盃とされたという浅井長政(1545-1573;正親町三条内大臣実雅の子の公綱の子孫、浅井家最後の当主)を彷彿とさせる。
ちなみに、皇帝ニケフォロス1世が帝位に就いていた802年から811年というのは、日本でいうと桓武帝(在位781-806)とその子の平城帝(在位806-809)、嵯峨帝(在位809-823)の治世に当たる。平城帝は病気を理由として弟の嵯峨帝に譲位したものの重祚を狙って薬子の乱(弘仁元[810]年)を起こしている。

デューラー、「アントワープ93歳老人の肖像」


1955年、ザール自治政府(現、ドイツ連邦ザールラント州)

サヴォアの初期キリスト教美術


フランス美術シリーズ(1970)

サヴォワはサヴォワ家(Savoie)が支配したイタリアのピエモンテ(Piemonte)とフランスに挟まれた地。
ローマ帝国が崩壊してから534年のフランク王国による征服まではブルグント族によってブルグント王国が成立していた。
フランク王国分裂後はブルゴーニュ王国の支配下の時代を経て、1032年にサヴォイア家(Savoie)のウンベルト・ビアンカマーノ伯(辺境伯[Markgraf, Margrave])の下で神聖ローマ帝国の支配下に入る。
フランス王国と神聖ローマ帝国の間にあって地政学的要衝であったことからサヴォワ地方はしばしば戦場となることを余儀なくされた。
フランス王家とハプスブルグ家との戦いであるイタリア戦争では領土の大半を失い、ようやく1559年のカトー・カンブレジ協定で首都をトリノに移して再建。しかし、フランスにルイ14世が立つと事実上フランス王国の支配下となる。その支配下を抜け出したのはヴィットリオ・アメデオ2世(1743-1780)だが、その時代にはスペイン継承戦争によってサヴォワ家はサルジニア王として歩む道を選択し、ここに後のイタリア王国の萌芽が見られることになる。

ティントレット、「聖ジョージとドラゴン」


シエラ・レオネ(2003)、サンクト・ペテルブルグ建都300周年
ティントレット[Tintoretto,Jacopo Robusti](1519-1594)

聖ジョージあるいは聖ゲオルギウス。サン・ジョルジュと言えば書店で馴染みがあろうか。そもそもは東方正教会の守護聖人。
十字軍を契機として西ヨーロッパに持ち込まれヴェネチアなど諸都市の守護聖人とされた。1222年にはイングランドの守護聖人に、後にはガーター騎士団の守護聖人として崇敬を受ける。
聖ジョージは西暦263年にカッパドキアに生まれ、4分割統治を始めたローマ皇帝ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、245-313、在位:284-305)の下で騎兵として仕える。
皇帝のキリスト教迫害に強く反対したために、3世紀末にパレスティナのリッダで斬首されたという。
聖ジョージに関してはドラゴン伝説が主題となることが多い。
現在でも、米軍で陸軍で歩兵以外の軍種によって構成される歩兵部隊をドラゴン(龍騎兵)と呼ぶように、ドラゴンは強さの象徴。と同時にキリスト教では異教徒の象徴でもある。
そのドラゴンがアフリカ大陸のリビアはサレムの町でひと暴れ。遂には王女が生贄にならなければならない状況に陥った。
そこで、立ち上がってドラゴンを退治したのが聖ジョージだとされている。その王女と聖ジョージは結ばれたというから、須佐之男尊(スサノオ)による八岐大蛇(やまたのおろち)退治を彷彿とさせる。
八岐大蛇伝説では、足名椎命、手名椎命夫婦の娘達が毎年犠牲になり、末娘の櫛名田比売の時に須佐之男尊(スサノオ)の登場と相成る。そして、須佐之男尊(スサノオ)と櫛名田比売が結ばれる。
聖ジョージの伝説は、当初はカッパドキア征服の物語であり、そこに13世紀のいわゆる黄金伝説が加味されることで、リビアはサレムの町を舞台とした物語へと発展していったと考えられている。