Poissin フランスで生まれたけど、イタリアはローマで人生の多くを過ごしたのがPoissin。 バロック様式の画家なんだけど、暗黒時代真っ盛りのフランスでは少し早すぎたっていうべきだろうね。 もっとも、Poissinが画家になろうって決心したのは、それほど早くはなかったんだ。 この点、いわゆる早熟の天才っていう形容は似合わない。 セーヌ川のほとりの町に仕事をするために、Quentin Varin(1570-1634)がやってこなければ転機は訪れなかったかも。 おっと、歴史に「もし」ってのは禁物だね。 ともかく、良い先生がやってきたということがPoissinの運命を変えたんだ。でも、そこからが簡単じゃないことは想像できると思う。 何故って、Poissinの家は裕福じゃなかったから。 放浪の旅が始まるわけ。 Les Andelysの町では画家への道は難しかったために家を離れ、最初はRouenに、それからパリへと絵画の師匠を求めて旅をする。 結局、これといった師匠にめぐり合うことは出来なかった。これは、Poissinが、それほdずば抜けていたっていうことじゃないんだ。 悲しいかなPoissinには学問がなかった。入門する前段階の訓練がきちんと出来ていなかったっていうべきかな。 あぁ、貧しさが邪魔をする。 「おしん」なんかは良いばっちゃんに出会ったから後々の成功に繋がったよね。 あの「おしん」だって、加賀屋に奉公する機会がなかったら別の人生だったろう。これは、歴史じゃないから「もし」は許してもらえるよね? 苦労に苦労を重ねんだけど、一時期に故郷に帰っている。 帰郷は、錦を飾るというものではなかったことや病を得たことなどから、懐かしい故郷といえども決して居心地の良い場所ではなかったということは想像に難くない。 彼は、そこで挫けることはなかった。何事も継続は力なりである。 病を癒したPoussinは再び故郷を後にしてパリへと旅発つ。 頑張ったわけだ。 挫けちゃだめだよ。 Poussinの画風はラファエロの影響を色濃く受けていると言われるけど、ラファエロは覚えている? で、事実、故郷に戻る前のパリで彼はラファエロの複製を通してイタリア・ルネサンスの洗礼を受けていたわけ。このことが、彼の目的地をパリからローマへと変更するってことになるんだ。人生の転機はどこにあるか分からないよ。 昨日食べた「おたべ」がボクの人生を変えることになるかもしれやしない。 聞いていない? 続けるよ。 彼がフランスの出身でありながらフランスを活動の場に選ばなかったことは、ラファエロの作品を通じての影響もさることながら若いときの流浪と認められない時代が影響しているのではないかって考えるのはちょっと考えすぎかな。 憧れのローマへは、1624年にPossinはイタリアの宮廷詩人であるGiambattista Marinoの助けで漸く赴くことになる。 後に短期間ではあるが、再びフランスで過ごすことになるまでの最初のローマ時代の代表作は1929年の「聖エラスムスの殉死(the Martyrdom of St. Erasmus)」ってことになる。だけど、美術界でPoissanが望んでいたほどの賞賛を浴びたというわけではなかった。この辺は難しいね。 これ以降、彼は方向転換してイタリアン・バロック様式ではなく、独自の様式を模索するようになっていくんだ。当時、ローマにはイタリアン・バロック様式を十分に活かしている画家たちが活躍していたわけで、そこにPoussinが入り込んで高い評価を得ることは難しかったんだね。そこに早くに気が付いたからこそ、Poissanの名が現代にまで残っている。 でね、芸術にはパトロンが必要。最初のイタリア時代におけるPossinのパトロンがCassiano dal Pozzo。この人、Porroは古代ローマの美術品の収集家として有名。それがまたPoissanの転機になるんだ。 それ以外にも、この時期にかつてヴェネチアで活動していたTitian(1485-1576)などの影響も受ける。一杯いろんな人の影響を受けるわけでけど、一番は、30年代半ばにはラファエロ(1483-1520)といえるね。あの天才ラファエロ。影響を受けたといっても活動時期に重なりはないヨ、念のため。この辺りが生涯にわたって、この人といった師匠を持たなかったPoussinらしいとも言えるところ。 Poussinは確かに古代ローマを模範とするイタリアン・バロックの画風を自らの基本的な画風としたけど、その消化の仕方は同時代の他の画家とは異なり独自色に彩られているんだ。その独自性は禅の思想にも似て簡素を旨とすしている。 簡単に言うと、キリスト教以前のローマの、いうなれば素朴な美術に触発されたものだったってことになるだろうね。 こうしたPoussinの活動も軌道に載っていくことになる。外国で自分の国の人が活躍していると嬉しいよね。だったら、自分の国にいるときに評価してあげればよいのにっていうことが当時のフランスでもあったんだ。 なんと、ルイ13世の宰相であるリシュリュー枢機卿(Cardinal Richelieu)はPoussinをフランスに招請する。 Poussinはローマに留まることを希望していたものの、母国の要請を断ることが出来ず、1640年に結局リシュリューの招請に応じる。 ここまでは故郷に錦を飾ったメデタシ。メデタシ、お終いなんだけど、そうは問屋が卸さない。 リシュリューやフランスの画家達にはPoissanの画風は早すぎたんだ。いろいろ揉めて、失意のうちに、1642年にはパリを後にする。彼の画風は、17世紀後半のフランスで受け入れられることになる。もっと早く気付いてよって、言ったかどうか分からない。 叫びたくなるね。 でも、ここでも挫けない。 ローマに戻って、清廉潔白かつ簡素性という彼独自の画風を貫き再び精力的に続けるんだ。 乾杯!
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