マウルヤ朝 BC317年頃、チャンドラグプタはナンダ朝に叛旗を翻す。これは、BC327年から325年にかけて行われたアレクサンドロス大王によるインド遠征に触発されたものだと伝えられている。アレクサンドロス大王による遠征は、インダス川流域のパンジャーブ地方より東に版図を拡大することはなかったものの、インダス川流域にはギリシア人勢力が殖民していた。 チャンドラグプタ王はナンダ朝を破ると、インダス川流域のギリシア軍を撃破。南に転じてはデカン高原の諸勢力を組み伏せる。 ここにマウルヤ朝マガダ国(BC320-180)がインド統一王朝として確立する。 これに対して、アレクサンドロス帝国の後嗣であるセレウコス朝シリアはインダス遠征軍を派遣する。しかし、結局はマウルヤ朝、セレウコス朝の両朝は講和条約を締結しインダス川を挟んで平和的共存を目指すことになる。 この講和条約によるセレウコス朝側の使節団に選ばれたメガステネスがマウルヤ朝に関する記録を残し、現在においてマウルヤ朝を知る一級の資料となっている。 マウルヤ朝の首都はパータリプトラ(パトナー)に置かれ、国民(国民というべきかは疑問)は仏教とバラモン教を信仰していたという。 初代チャンドラグプタ王の後、王位は息子のビンドゥサーラ王に引き継がれ、そして仏教を信仰し仏教をインド各地へと広めたとされるアショーカ王の時代にマウルヤ朝は領土を最大にするに至る。 デカン高原にはカリンガ朝があり、マウルヤ朝と並立する状態にあったけれども、これを遂に滅ぼしたのである。もっとも、これは、3代にわたって整備された常備軍と官僚制の確立が大きく寄与していたと言える。 アショーカ王は自身が仏教に改宗し仏教を広めた人物としても知られているが、ヘレニズム文化が大量にインドに流れ込んだのも、実はアショーカ王の時代。 これは、それだけ内政が充実していた証拠との言えるかもしれない。仏教の布教では、セイロン(スリランカ)への布教が最も知られているが、なんとアレクサンドロス大王の故地マケドニアへも、さらにはエジプトにさえも伝道団を派遣している。 こうした仏教の隆盛は伝統的バラモン教に危機感を抱かせ、これを契機としてバラモン教がヒンドゥー教へと変貌を遂げる。 この辺りがマウルヤ朝の絶頂期であり、その後は急速に求心力を失っていく。その兆候は既にアショーカ王時代にも現れており、例えばアショーカ王の進めた「ダルマ(法)による政治」は、その努力に関わらず浸透することはなかった。 仏教とともに隆盛を極めたマウルヤ朝はブリハドラタ王の時代に、仏教に侵食されてきたバラモン出身のプシュヤミトラのシュンガ朝(BC180-68)によって滅ぼされ、インド統一王朝はグプタ朝までしばらく姿を消す。 しかし、政治的には分裂と混乱の時期に、ウマルヤ朝で一応の萌芽を見たインド文化がグプタ朝で花開く準備がなされることになる。
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