歌麿は蔦屋重三郎に見出され世に出た。当時、美人画の第一人者は鳥居清長とされており、当初は歌麿も清長の画風の強い影響下にあった。しかし、寛政4、5年頃に「婦人相学十躰」「婦人相学十品」を手がけ、続いて「江戸高名美人」(寛政5、6年)、「当世踊子揃」(寛政5。6年)、「歌撰恋之部」などの大首絵をものにし完全に清長の画風の影響を脱したとされる。
 こうした大首絵を次々と出して独自の画風を確立していった背景としては、立像や坐像の美人画を得意とした鳥文斎栄之の向こうを張ったということがある。
こうして、立像・坐像の鳥文斎栄之、大首絵の歌麿という評価を得るようになる。しかし、歌麿はここで留まるようなことはなく。鳥文斎栄之の得意とする坐像・立像の分野でも「青楼十二時 續」、「名取酒六家撰」を出して浮世絵の歌麿となる。
名声を欲しいままにした歌麿も、いわば正統派絵師集団である狩野派や土佐派に比べると見劣りすることは否めなかった。江戸浮世絵を担ったのは、いわゆる御用絵師とは異なる流れであり、その始まりは菱川師宣とされる。この流れは鳥居清信・鳥居清長といった鳥居派に引き継がれる。そして、鈴木春信に至って確立されたとされる。その後、歌川豊国(1769-1825)や歌川広重を生み出し、伊東深水へと至る歌川派と宮川長春(1682-1752)から始まり勝川春章や葛飾北斎(1760-1849)、渓斎英泉(1790-1848)を世に放った葛飾派が出てくる。歌麿は、こうした流れの中にすらいない。このような御用絵師でもなく、特定流派にも属さない独立派としては、他に東洲斎写楽が知られている。
 そうしたこととは関係なく、歌麿の大衆の絵師としての地位は揺るぎの無いものとなっていく。それ故に、享和期になり、大衆の間で浮世絵ブームが盛んとなると大衆に迎合した構図を書かざるを得ない状況に追い込まれていく。そして、不幸なことに、このために幕府から咎めを受け、入牢のうえ、50日の手鎖の刑に処せられる。そして、文化3年9月に世を去った。