7月26日(土曜日)
諏訪大社
 「諏訪大社の上社と下社というのは起源が違うんだよね」
 「まず、上社というのは本宮と前宮のことね。それから、下社というのは春宮と秋宮のことをいうのね。この4つを合わせて諏訪大社っていうのよ」
 「祭神は、『延喜式』だと南方刀美(みなかたとみ)神社って記されているからミナカタトミノミコトってことになるかな」
 「『延喜式』ではそうだけど、『三代実録』では建御名方富命神社って記載があるから、タケミナカタトミノミコトということになるのでしょうね。この建御名方富命は出雲の大国主命の子とされていて、天孫降臨のときに建御雷神(たけみかずち)に追撃されて出雲から諏訪に追い詰められて、諏訪の地から出ないことを誓わされたと『古事記』に言われているわ」
 「『古事記』にだけだよね。それに、下社の祭神は阿蘇から移ってきたんだよね。だけど、上下社ともに現人神である大祝という最高職を置いていた。これは、下社が上社の様式を真似たと考えられるね」
 「そうね。上社の大祝を継いで来た諏訪一族は建御名方富命の子孫とされているけど、大祝在任中は天孫降臨のときに建御雷神に誓ったとおりに諏訪からは出ないとされてきたのよ」

7月25日(金曜日)
越中女一揆
 「米騒動は富山から火が付いたんだよね。そういえば、僕の祖父は福井の出身なんだけど、よく話してくれたなぁ」
 「富山県魚津町のごく普通の漁師のごく普通の主婦達が町役場・米屋などに押し寄せて抗議活動を行ったのが始まりね。第一次世界大戦の勃発で米価が高騰していて、それだけでも大変なのに業者が売り惜しみをしたのよ。それが原因。大正7(1918)年のこと」
 「同時多発的だったんだよね。魚津は7月23日でしょ、8月3日には西水橋町と富山全域で抗議・襲撃運動が巻き起こった。いづれも、政治的な闘争ではなく一般の主婦が主体であったことが特色だね」
 「そうね。それに、騒ぎは富山だけに留まらなかったのね。あなたのお祖父さんも福井で騒動を目にしたらしいけど、全国32県33市201ヵ村に伝播したと言われているわ」
 「全国的な騒動だったんだね。だから、時の寺内内閣は軍隊まで出動させて鎮圧に当たったんだね」
 「それからも良くなかったわね。皇室の内帑金や国庫金で米を買い上げて販売をしたのはいいのだけれど、事態の沈静化を狙って、米騒動に関する一切の記事掲載禁止令を出すのよ。これには、マスコミは黙っていないわね」
 「寺内内閣の辞職へと繋がっていったわけだ」

7月24日(木曜日)

赤坂見附の九郎九坂
江戸時代にこの坂の近くに一ツ木町の名主秋元八郎左衛門の先祖である九郎九が住んでいたことに因むという。この坂に面して大岡越前邸があった。



7月23日(水曜日)
寺内内閣
 「寺内内閣は成立当時から不人気で、寺内自身、2ヵ月も持てばいいほうなんて考えていたのよね」
 「当時は、第二次大隈重信内閣が大浦内相の増師案通過に絡む政友会議員買収疑獄事件で倒れ混乱した後を継いだことも影響しているのかもしれない。大隈内閣は政党内閣だったからね。大隈首相は後継首相に立憲同志会の加藤高明を推薦するけど、山縣元老が拒否して、結局は不偏不党性を保つという目的のために朝鮮総督の寺内正毅が後継になったわけだ。こうした構図が不人気の原因だろうね」
 「内閣の顔ぶれをみても、朝鮮総督府関係者が多く官僚中心というものになっているわね」
 「そうなんだ。そのために、『朝鮮内閣』とも揶揄されたんだよ。政党という側面では、内閣参謀であった後藤新平を通じて政友会との連携を図ったから、第一政党の立憲同志会(大隈内閣与党)は非政権党として『苦節10年』の辛酸を味わうことになるんだ」
 「でも、そうした中で、立憲同志会と中正会、大隈伯後援会のだった公友倶楽部が組閣の翌日には合同して憲政会となり、後に民政党として政友会と2大政党を形成するのね」
 「その中で、寺内内閣は中国対策で頭を悩ましている時期に、ロシア革命が勃発して、シベリア出兵を決めたのはいいけど、陸軍が外交調査会の意志を無視して戦線を拡大してしまうという外交危機に陥ってしまうんだ。そして、止めは米騒動だね。事、ここに至って如何ともし難しだね。遂に、政友会の原敬に組閣の大命が下るに至るんだよ」


7月23日(火曜日)
大祝家と総領家
 「昨日の続きだけど、諏訪家が二統両立っていっておいて、その後の大祝家については全く触れなかったわ。別に忘れたわけではないのだけれど」
 「総領家のほうは話したけどね。総領家を継ぐことになる諏訪頼忠、つまり武田信玄に自害させられた諏訪頼重のいとこが一時期大祝を務めたということは話したけどね」
 「これには、隣りの高遠の事情が絡んでくるのよ」
 「高遠家は諏訪氏の血を引いている大祝家の支族だね。それはともかく、」
 「文明14(1482)年に、高遠を支配する高遠継宗と高遠氏代官の保科貞親が激しく対立するのよ。そこで、主筋にあたる諏訪家が調停に乗り出すの」
 「でも、諏訪家も総領家と大祝家が分離・対立しているのだから他家の調停どころではないよね、本当は」
 「そうなのよ。最初は調停してたけど、後に代官の保科氏に千野氏などが味方し、高遠側に大祝家が味方して血みどろの戦いとなるのよ」
 「血みどろのねぇ。そもそも大祝家は祭を主とするはずでしょ、それが政治的な闘争に身を投じるから話がおかしくなったわけだ。ここで、同じ諏訪家でも大祝家と対立する総領家の政満が保科に援軍を差し向けるわけだね。いわば、保科を舞台にした諏訪家代理戦争だ」
 「その通り。諏訪の両家統一の機運が高まったといってもいいわね。昨日も話したけど、この戦いの最中の文明15年に諏訪大祝家の継満が諏訪総領家の政満を騙し討ちするのよ。そうすると、大祝家が諏訪家を統一することになるんだけど、そうは問屋が卸さなかった」
 「もともと有力家臣の千野氏は総領家と同じく保科に加担していたからね。大祝家が総領家を討ったといっても、大祝家に従属するはずがないわけだ」
 「千野家などの臣下対大祝家の戦争となるわけね。代理戦争が代理戦争ではなくなったわけよ。大祝家は千沢城に立て篭もって諏訪総領家を併合したことを宣言するけど、あえなく頼満は討ち取られ、族滅の危機に晒される」
 「頼満というのは継満の父親だね。それで、今度は支援していた高遠継宗を頼って継満は伊那に落ち延びる」
 「その後、諏訪継満は伊那衆とともに諏訪に攻め入るけど、劣勢を挽回することは出来ず、結局、政満の二男頼満が上社大祝職に就いて、総領家が諏訪家を統一することになるのよ」


7月22日(月曜日)旧暦6月13日、九紫火星、辛卯、赤口、十方暮
すわ一大事、諏訪家の存亡。
 「諏訪の高島藩を統治したのは諏訪家だよね。この諏訪家というのは武田信玄が滅ぼした諏訪家とイコールなのかな?」
 「まず、諏訪頼水(よりみず)という人が高島藩の初代藩主ね。この人は徳川家に従っているの。その父親である頼忠武田信玄に討ち取られた諏訪の総領頼重のいとこに当たるのよ」
 「頼重は、武田信玄のいる甲府へ連行され東光寺に幽閉され自害させられ、諏訪は武田勢によって攻め取られたんだよね。その際に、諏訪頼水は脱出するわけだ」
 「もともと、諏訪氏は上社の大祝なのね。諏訪大社には上社と下社があって、下社は金刺氏が支配、上社は惣領家と大祝家という具合に祭政が分かれていて、いわば三つ巴の戦いを繰り広げてきたのよ」
 「でもまぁ、軍事的には上社のほうが優位だったわけだよね」
 「そうね、金刺氏は後に諏訪頼満によって滅亡に追いやられるわね。このように、祭政が分かれたのは諏訪信満の代からね」
 「諏訪満有の子信満が総領家を、満有の弟の頼満が大祝家を継いだわけだ。そして、両家は宮川を挟んで南北で対立抗争を繰り広げる。」
 「一時は、頼満の子の大祝家継満総領家政満を討ち取るという勢いで大祝家が優位だったけど、結局は二統両立ね」
 「討ち取られた総領家政満の子の頼満の代で、隣国の武田信虎と勢力争いを繰り広げ、後に信虎の娘が頼満の孫頼重に嫁することで和睦が成立する。ここで、諏訪と武田の勢力均衡が図られたわけだね」
 「ところが、頼満の死後、信虎の子信玄頼重は対立して、さっき言ってたように諏訪氏は滅亡に追いやられるわけよ。その後、諏訪を追放されていた諏訪一族が諏訪大社に戻ってきて、諏訪頼忠を諏訪氏頭領として擁立するのね。そして、織田信長が明智に討ち取られた後に信濃に侵攻してきた徳川家康の家来の酒井忠次と反目するけれども結局は徳川家康の配下に入ったの。当然、家康の関東下向にも付き従う」
 「そして、後に諏訪に戻ってくるわけだ」


7月21日(日曜日)旧暦6月12日、一白水星、庚寅、大安
長野県は長野県ではなかった?
 「長野県というと、今は県議会による田中県知事への不信任案可決で有名だけど、歴史的にみて、『長野』として一体化というか統一されたのは比較的新しいんだよね」
 「まず、江戸時代は直轄領である天領や旗本領が複雑に入り組んでいたから、そういう意味では現在の長野県に相当する統一的地域はなかったことになるわね。信州には、松代藩、飯山藩、岩村田藩、須坂藩、田野口藩、上田藩、小諸藩、松本藩、高島藩、高遠藩、飯田藩と全部で11の藩があったのよ。それに伊那は天領でしょ。現在でも、東信、北信、中信、南信の四つの『小県』があるなんて言われることがあるわ」
 「まぁ、各種の領地が複雑に入り組んでいたということと、地域としての統一性があったのかどうかということは、一応別に考えなければならないね。だけど、話を前者に絞って考えると」
 「まず、慶応3(1867)年に維新政府側は王政復古の大号令を行って、徳川幕府領を県の名のもとに政府直轄領としたの。ここで、それまで入り組んでいた諸領が統合されて、慶応4(1868)年8月に伊那県が設置されたのよ」
 「県庁所在地は旧・飯島陣屋、つまり下伊那郡飯島町だね。だけど、その伊那県がそのまま現在の長野県へと直接繋がるのかというとそうではない」
 「その通り。明治3(1870)年9月に、この伊那県から中野県が分割新設されることになるのよ。えーと、伊那県のうち佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな) ・埴科(はにしな)・高井・水内(みのち)が中野県とされたのね」
 「新設中野県の県庁所在地は現在の中野市の旧代官所だね。それが、いろいろとあって(中野騷動)、中野から善光寺宿へと移ってくる。明治4(1871)年6月のことだね。名前も中野県から長野県へ変わる」
 「上水内郡にあった長野町ね。当時は善光寺宿を中心にして、これまた新設されたばかり。こうして、現在の長野県は伊那県と長野県の2つになったかというとそうじゃぁないのよ。この時点では、単に旧幕藩体制の領地がそのまま継承されていたから、当然に飛び地とかがたくさんあったわけ。そこで、これらを一括して整理するという大改革、つまり廃藩置県が断行されるの」
 「で、伊那県と長野県が筑摩県と長野県へと再統合・整理がなされたわけだ。筑摩県の県庁所在地は今の松本だね。どうも、長野県というと松本が県庁所在地かなと勘違いしてしまうけど、故なしとはいえないわけだね」
 「このときの筑摩県には飛騨地方も含まれているのね。でも、この筑摩県は明治9(1876)年8月21日には、岐阜県と長野県に分割統合され消失するの。この時点で、現在の長野県が誕生することになるのよ」

長野県歌「信濃の国」/作詞:浅井冽/作曲:北村季晴

1.
信濃の国は十州(じっしゅう)に境さかい連(つら)ぬる国にして
聳(そび)ゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平(たいら)は肥沃ひよくの地
海こそなけれ 物さわに 万(よろず)足(た)らわぬ事ぞなき

2.
四方(よも)に聳そびゆる山々は 御嶽(おんたけ) 乗鞍(のりくら) 駒ヶ岳
浅間(あさま)は殊(こと)に活火山 いずれも国の鎮(しず)めなり
流れ淀まず ゆく水は 北に犀川(さいがわ) 千曲川(ちくまがわ)
南に木曽川 天竜川 これまた国の固(かた)めなり

3.
木曽の谷には真木(まき)茂(しげ)り 諏訪(すわ)の湖(うみ)には魚(おお)多し
民たみのかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある しかのみならず桑とりて 
蚕飼(こがい)の業(わざ)の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ
国の命を繋ぐ(つな)ぐなり

4.
尋(たず)ねまほしき園原(そのはら)や 旅のやどりの寝覚(ねざめ)の床(とこ)
木曽の棧(かけはし) かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名に立つ姨捨山(おばすてやま)
しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌(しいか)に詠(よ)みてぞ伝えたる

5.
旭将軍義仲(よしなか)も 仁科(にしな)の五郎信盛(のぶもり)も
春台(しゅんだい)太宰(だざい)先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
皆(みな)此(この)国の人にして 文武の誉(ほまれ) たぐいなく
山と聳(そび)えて世に仰(あお)ぎ 川と流れて名は尽つきず

6.
吾妻(あずま)はやとし 日本武(やまとたけ)  嘆(なげ)き給(たま)いし碓氷山(うすいやま)
穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣(おと)るべき
古来山河の秀(ひい)でたる国は偉人のある習い